覚醒した途端、総身が軋み微かな痛みを覚えた。
 関羽は怠い身体を起こして周囲を見回す。天幕の中のようだ。だが、曹操軍の天幕でないことは確かだ。

 わたし……何をしていたのかしら。
 朧気な記憶を手繰り寄せ自分の行動を思い起こす。

 夏侯惇に、劉備が処刑されると聞いて袁紹軍に向かおうとしていたんだった。それで、曹操に一言断りを入れたら――――祝言を上げて欲しい、と……。

 それから一気に記憶は鮮明になった。

 そうだ!
 その祝言を途中で止めようと思ったら曹操に薬を飲まされたのだ。
 それから、それから――――簪で足を刺して、逃げ出して……。

 駄目だ。


 それ以降は記憶が酷く曖昧だった。薬が効いた身体でありながら、無我夢中で逃げていたからだろう。
 どうやって曹操から逃れられたのか、いつ国境を越えられたのか、分からない。

 どれくらい時が経ったのかすらも――――


「……っ、そうだ! 劉備!」


 劉備、劉備はまだ処刑されていない!?
 慌てて立ち上がろうとした彼女はそこで足に激痛を覚えてその場に崩れた。悲鳴が漏れて倒れ込むと、誰かが天幕に飛び込んでくる。

 彼女を身体を抱き起こして寝かせたのは世平だった。


「せ、世平おじさん!!」


 彼は驚く関羽の頭を撫でて微笑を浮かべた。


「久しぶりだな。お前達が徐州から消えて以来だ。元気にしてたか? 幽谷――――いや、今は犀華って言うのか。あいつは一緒じゃなかったんだな」


 関羽は目を丸くして、視線を落とした。
 幽谷のことなど、今の今まで意識の外に追いやっていた。考えていなかった。
 世平にそんな意思は無くとも、そのことを責められているような気がして、関羽は罪悪感の為に下唇を噛み締めた。

 それをどう受け止めたのか、世平は暫し沈黙して、口を開いた。


「俺は言ってみれば男親だ。話しにくいかもしれねぇが、一体何があったのか、話してくれねぇか」

「……世平おじさん……」

「突然消えたと思ったらこんなひでぇ姿で戻ってきたんだ。そりゃ、誰だって心配する。お前が曹操んとこにいたのは聞いた。……曹操にひでぇことされたのか? もし、そうだとしたら、」


 ぎり、と奥歯を噛み締め世平は拳を握り締めた。爪が掌を傷つけかねない程に込められた力に関羽は慌ててかぶりを振った。


「違うの! 違うのよ、世平おじさん! わ、わたしが、わたしが……」


 わたしが、曹操のことを愛して……。
 小さく、囁くように言った関羽に世平は目を剥いた。

 世平は驚いた。

 関羽の話を続けるうちに、徐々に渋面を作っていく。
 曹操が関羽と同じ混血であると話した直後の世平の驚きようは尋常ではなかった。

 それもその筈。
 混血など元より生まれる筈がないのだ。
 それが今、この世に曹操と関羽として存在する。
 世平の驚きも、至極当然であった。

 世平ですらそうだったのだ。
 曹操の得た衝撃は……想像も出来ない。
 ようやっとまみえた同胞――――その事実に得た安堵が、最初に彼を狂わせたのかもしれない。


「曹操とわたしは結ばれるべきだって。それが必然だって。それで曹操は、猫族のみんなを殺そうとしたり、挙げ句の果てにわたしを閉じ込めようとしたの……」


 今思い出しても、祝言の時の鬼気迫る曹操の形相は恐ろしい。
 青ざめて自分の身体を抱き締めつつ、それ以後のことを話そうとする関羽を、世平が声を荒げて止めた。


「もういい! もういい! それでお前は命カラガラ逃げてきたんだな! 犀華は、その時に別れたんだろう?」


 宥めるように関羽の身体を抱え起こし、優しく抱き締めた。


「よく戻った! 安心しろ。お前のことは俺らが絶対守る。今はゆっくり休め。休んで……犀華と幽谷が戻ってくるのを待とう」

「犀華、幽谷……」


 世平の言葉を聞きながら、関羽は何か引っかかりを覚えた。
 幽谷――――彼女は、何処で別れたんだったか。
 曖昧な記憶の中に答えはあるのだろう。
 何処だ? 何処で別れた?


『幽谷は、置いていくわ』

『今は、幽谷とは一緒にはいられない』



 直後、頭の中で何かが割れたような音がした。
 思い出した瞬間、関羽の双眸から涙をこぼした。

 世平がぎょっとして関羽を呼ぶ。


「関羽? どうした?」

「幽谷、は……わたし、幽谷を置いて来た、の」


 一緒にいたくなくて。
 幽谷が信じられなくて……!
 犀華が、とても曹操に敵うとは思えない犀華が足止めをしてくれたのだ。幽谷でなかったのは、関羽が拒絶したから。きっと、そう。


「……幽谷とも、何かあったんだな」


 関羽は首肯した。


「幽谷は、わたしのお父さんのこと、知っていたの。それをずっと、黙っていて……わたしのことなんか、きっとどうでも良いんだって……信じられなかった。何を信じたら良いのか分からなくなっていて、幽谷も信じられなかった」


 世平は眉間に皺を寄せた。
 ややあって、


「お前の父親のことは、幽谷が話したのか」

「いいえ。この間の戦の中で泉沈に会って、彼に教えてもらったの。幽谷がわたしのことなんかどうでも良いからずっと黙っていたんだって……」

「泉沈は、お前の父親が公孫賛様だとお前に教えたんだな」


 問われ関羽は顔を上げた。どうしてそれを、視線で質せば彼は渋面を作って関羽を再び抱き締めた。
 背中を撫でてやり、「俺もそのことは幽谷から聞かされた」と。

 関羽は目を剥いた。
 では、世平も知っていて黙っていたと言うのか!?


「そんな、いつ……!」

「まだ俺達が幽州に世話になっていた時だ。あいつは公孫賛様に依頼されてとある猫族の女性について俺に訊ねてきた。それが、お前の母親だったんだ。泉沈がいつそれを知ったのかは分からねぇが――――」

「どうして黙っていたの!?」


 つい声を荒げてしまった。
 しかし世平が悲痛な顔をしているのに、口を噤んで謝罪した。

 世平は一旦腕を解いて関羽の肩を掴むと、強く見据えてきた。叱るようにも、言い聞かせるようにも思えるそれはとても厳しかった。


「あいつは、過去暗殺を生業としていた。なら当然人間の汚い部分ばかり見てきた筈だ。そんなあいつなら、お前が公孫賛の実の娘だという事実を晒せば、たちまちに人間の勝手に振り回されることも予想出来た。幽谷はお前に家族を知らせるよりも、お前の身の安全を最優先にしたんだ」


 お前のことがどうでも良かったんじゃない。お前の顰蹙(ひんしゅく)を買ってでも、笑って暮らせるようあいつなりに気を遣ったんだ。
 また、涙が落ちた。


「そんな……」


 愕然とした。
 すぐには信じられなかった。

 それが本当のことなら――――いや、本当のことだ。世平が言うのだもの。間違いである筈がない。

 ……それに自分も知っていたじゃないか。

 幽谷がどんな女性であったか。自分をどれだけ案じてくれているのか。

 彼女とは親友だった。
 猫族の誰よりも、彼女のことを分かっていたじゃないか。

 だのに、だのに――――どうして自分は泉沈を信じた?
 幽谷の態度に、軽率な判断をしてしまった?

 追求すれば彼女は話してくれたかもしれない。
 どうして、追求しなかったの?

 どうして、幽谷を信じられなかったの?


 もう、何もかもが遅すぎる。


 関羽は口元に両手を持って行った。唇に触れれば、がくがくと震えていた。


「わ、わた、し……!」


 わたしは何てことをしてしまったの!
 がらがらと崩れていく。

 最低だ。
 最低だ。
 最低だ。

 己のしたことに慄然(りつぜん)とした。震えが収まらない。

 あの後犀華と幽谷はどうなった?
 無事なの?
 それとも――――。

 嗚呼、分からない!

 世平は関羽の肩を撫で、沈痛な面持ちで関羽を見下ろしていた。



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