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追いつかれた!!
関羽は歯噛みした。
掴まれた髪に頭皮を引っ張られて痛い。
立ち止まってしまった所為で全身に疲労が押し寄せ身体が鉛のように重くなった。頭がぶれて一瞬思考が沈みかけた。ややもすれば、睡眠薬の効力に堕ちていたかもしれない。
薬に意識を沈められてしまえば、曹操に閉じ込められる。
永久に、猫族達に会えなくなる――――。
嫌だ、嫌だ!
こんなの絶対に嫌!!
「絶対に離さぬ。お前は私と共に帰るのだ!」
「嫌よ! あなたが愛してるのはわたしじゃない! わたしの血よ! 混血ならば誰でもいいのよ!」
「何だと……?」
困惑したような呟き。されど髪を掴む手の力は弛まない。
関羽は言葉を続けた。
「わたしのことを見てくれない人にどうしてわたしが、閉じ込められないといけないの! わたしは劉備のところに、みんなのところに行くわ!」
畳みかけるような言葉に曹操は一瞬だけ声を詰まらせて怒鳴る。
「絶対に行かせぬ!」
ぐいと髪を引かれて悲鳴を漏らした。
このままでは駄目。
逃げられない……!
この、この髪が邪魔なのよ。
なら――――。
懐に忍ばせた小刀を抜き、振るう。
一切の躊躇いなど無かった。
ぶつっと言う音と共に解放される頭。力に応じて身体が、前に傾いた。
薬の効力でぼやけた思案の中、彼から逃れようと両手を突いて曹操から距離を取った。
「お前……一体何を!?」
「曹操、あなたは変わってしまった。わたしもあなたの傍に、共にありたいと思っていたのに……」
じり、と後退すれば曹操が手を伸ばす。その狂気を孕んだ幼子の目が胸を抉る。
「何故だ、何故共にいてくれぬのだ! 何が変わったというのだ!」
「曹操、あなたには混血でも何でもない、ただのわたしを愛してもらいたかった……」
「……っならぬ!」
曹操は必死の体で関羽を捕らえようとする。
関羽はすぐに逃げようと身を翻した。が、足がもつれてその場に倒れてしまう。
いけない!
曹操を振り返った直後――――。
「ったああぁ!!」
「なっ!?」
曹操に突進する影があったのだ。
‡‡‡
「さ、犀華……!」
関羽は身体を反転させ、後ろに両手を突いて前に立ったその女性を見上げた。
彼女は肩で息を荒くして曹操を睨みつける。
幽谷、ではない。
そのことに、胸に内がもやもやとした。
「本当に、何だってのよ……あんた達は!」
折角あたしが幽谷を助けてやろうってしてんのに揃って幽谷を追い詰めて!
苛立たしげに怒鳴る犀華は関羽を肩越しに振り返り、声を張り上げた。
「何してるの! さっさと行きなさい!!」
「え、あ……」
「あたしじゃいつまで時間を稼げるか分からないんだってば!」
「あ――――ありがとう!!」
犀華に謝辞を述べれば、犀華は目を細め、曹操を見やる。
「幽谷……やはり、邪魔をしに来たか。あれこれと毒を作らせた甲斐が無かったな」
「え?」
「さぁ、何のことかしらね」
犀華は関羽を呼んでキツく促す。
「出鱈目(でたらめ)に惑わされてるんじゃないわよ。良いから早く行きなさい」
「で、出鱈目……? 本当に?」
「そうよ。幽谷は毒が効かない身体なんでしょう。そんなのあなたは知ってるんじゃないの?」
まるで犬を払うかのように片手を上下に振り、犀華はぎこちない動作で匕首を構えた。後ろからでも、曹操に怖じているのが分かる。
関羽はまた促されてよろよろと立ち上がり、数歩後退した。
そんな彼女に犀華は穏やかに、言い聞かせるように声をかけるのだ。
「……良い? 関羽。走り出したら絶対に振り返らず、猫族のもとを目指しなさい。そうでもしなければあなたの意識は保たないでしょ。それと――――これだけは言っておくわ」
あなたの所為では、決してないから。
そう言った瞬間、犀華は「行きなさい!!」と鋭く叫んだ。
関羽はその言葉に押されるように地面を蹴った。
犀華の言われるがまま、彼女は振り返らずに走った。
ただただひたすらに劉備――――否、愛する猫族のもとへ。
彼らがどんな状態であるのか、知ることも無く――――。
‡‡‡
曹操に追いついた兵士達はその足下に転がる死体に仰天した。
生気を失った瞳は赤と青。虚ろなそれが誰かを捉えることは無い。
彼の手にした剣にはべったりと赤い血が付着し、切っ先からぽたりぽたりと垂れた。
もしや曹操が、あの人並みならぬ――――いや、化け物並の強さを備えたあれを殺めた?
驚愕に顎を落とす彼らを、曹操はゆっくりと振り返ると、剣に付いた血を振り払い歩き出した。
「…………城へ戻るぞ。戻り次第すぐに出兵する」
「は――――ハッ!」
自我を取り戻した一人の兵士が一団を振り返り、指示を飛ばす。
統率の取れた彼らは曹操を残し、足早に許昌へと戻っていった。
曹操はそれを一瞥した後、動かなくなった死体を見下ろし、関羽の走り去るその姿を笑みを浮かべて見つめる。もう追いかけても捕まえることは出来ないだろう。
ならば、これからやることは一つ――――。
その唇が薄く開かれ、哄笑が漏れた。
「よくわかった。関羽よ、お前は決して私に下らない。ならば私はお前の全てを滅ぼそう。お前の愛する者、全てを!」
そうして孤独となったお前を……私は手に入れるのだ!
あれも殺した。
もう、邪魔を出来る者などいはしまい!
狂気を孕み、それでも未だ求め続ける黒の眼差しは、天へと向けられた。
――――奇(く)しくも、彼女の赤と青の双眸もまた、広大なる天へと向けられている。
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