逃げなければ、

 逃げなければ、

 逃げなければ!


 関羽はひたに走り抜ける。
 周囲の驚きと好奇の眼差しなど構わない。ただただひたすらに馬で城下を、草原を走り抜けた。

 途中で馬が潰れた。泡を吹いてその場にどうと倒れる馬の苦しむ様に罪悪感が湧かないでもなかったが、追っ手が追いつく前にその場に置いて駆け出した。

――――この時、関羽の頭には幽谷のことなどすでに無く。
 曹操に飲まされた薬の効力もあるのだろうが、劉備の処刑のこと、曹操への絶望に満たされていた。
 曹操はもう自分を見ているのではない。自分の血が彼の愛情の向かう先――――その事実は、関羽を酷く傷つけた。
 今の彼女にとって、幽谷は至極どうでも良いことだった。
 それよりも他のことが重くて、重くて……もう幽谷のことにかまけている場合ではないと、頭の片隅で切り捨てられていた。

 もし、彼女が幽谷の現状を知っていたとするならば、少しは違っていただろうか。
 その心をほんの少しだけでも、幽谷に向けていただろうか。


 答えは否だ。


 他人に対して不審になりつつあった関羽に、泉沈の言葉はぐっさりと深く突き刺さった。
 そしてそれを裏付けるように、幽谷は反応を誤った。
 色んなことが重なった結果なのだから、分厚い束からほんの一枚紙が抜けたとしても、さしたる問題になりはしないのだ。

 関羽は走る。
 振り返りはしない。
 逃げて、逃げて、大切な仲間達のもとへと戻る。

 たった、一人。



‡‡‡




「みなさんお喜び下さい。間者の話によると無事に関羽さんは、曹操の屋敷から脱出した模様です」


 喜色満面の笑みを浮かべて、袁紹は趙雲達に告げた。

 確かに喜ばしい報せではある。
 だがしかし、趙雲は目を細め、


「脱出、ということは送り出されたわけではないんだな。幽谷は共にいないのだろうか」

「あの陰湿な曹操がそう簡単に手放すかよ。あの四凶なら、曹操の足止めでもしてんじゃねえのか」


 確かに、関羽の安全を第一に考える。関羽が無事に脱出出来るように身を犠牲にするのもごく自然の流れと言えるだろう。

 袁術の言葉に同意するように深く頷いた。


「そのとおりです。これから彼女の曹操の追撃を振り払ってこなければなりません。後は彼女が、幽谷さんと合流し、曹操に捕まらず無事に辿りつくことを祈るのみです。せめて国境まで行って彼女達を待ちたいと思います。みなさん、準備をして下さい」


 微笑みかける袁紹に世平は頷き趙雲を振り返った。


「あいつを迎えてやろう」

「俺は皆を呼んでくる」


 袁紹に拱手し、趙雲は足早に天幕を出た。その顔色は暗い。
 関羽が無事に曹操から離れられた。

 だが幽谷の方が分からない。
 あの戦場で犀華という人格に変わった幽谷が、曹操や夏侯惇、夏侯淵達を相手に上手く足止めが出来るだろうか?
 戦場で彼女に変わったままだったとすれば……犀華は幽谷のように戦えるとは到底思えなかった。
 犀煉もあの戦に身を置いていると袁紹軍の兵士から聞いていたが、それでも――――。

 不安は尽きない。

 趙雲は無意識のうちに吐息を漏らした。
 けれども思案は張飛の声に打ち切られてしまう。


「おーい、趙雲!」

「張飛。どうかしたのか」


 少々焦ったような風情の張飛は趙雲へと駆け寄ると、周囲を見渡した。
 誰かを捜すような素振りに、首を傾けた。


「泉沈知らね?」

「泉沈? 蘇双が一緒にいたと思うが……いないのか?」

「蘇双がちょっと目を離した隙にどっか行っちまったんだ。幽谷みたいに術使うし、……どっかに隠れちまってんのかなぁ」


 幽谷も泉沈も、隠れようと思えば自分達には絶対に見つけられない。
 猫族や人間の近くにいることが嫌で、陣屋の外に出て行ったのかもしれない。

 趙雲は腕組みして思案した。


「……分かった。国境に行く間、周囲を捜してみよう」

「国境に行く? 何で?」


 そこで、趙雲は袁紹から伝えられたことを張飛に伝える。

 関羽を恋しがっていた彼は、見る見る喜び「よっしゃー!」と両手を天へと突き上げた。
 しかし、すぐに何かに思い至り、両手を落とす。


「んじゃあ幽谷――――じゃなくて犀華、だっけ? あいつも来んのか。だったら先に皆に話しておかないとなー」

「……そうだな」


 趙雲は緩く頷き、再び周囲を見渡した。


「張飛、皆にこの話をしてくれないか。俺は、陣屋内を捜してくる。まだ泉沈がいるかもしれないしな」

「おう。分かった」


 趙雲は張飛に「頼む」と声をかけて、その場から駆け出した。

 泉沈の名前を呼びながら陣屋内を走る。
 しかし、人間の兵士達と擦れ違うことはあっても、目当ての少年の姿はなかなか認められなかった。


「……やはり陣屋の外に出ていたのか――――」

「さっきから五月蠅いんだけど」


 突如、声。
 ぎょっとして身体を反転させると、そこに不機嫌極まる表情の泉沈が立っている。

 趙雲はほっと胸を撫で下ろした。


「泉沈。何処にいたんだ」

「何処でも良いじゃん。気持ち悪い奴らと一緒にいるなんて反吐が出る」


 露骨な厭悪を示す彼に、趙雲はそっと手を伸ばす。

 刹那、その手に無数の裂傷が走った。
 痛みに手を引くと、泉沈は蔑視を向けて身を翻す。

 そして――――姿を掻き消した。
 名を呼ぶ暇すら、彼は与えてはくれなかった。



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