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 幽谷は走った。
 走って、走って――――。

 強烈な眩暈に襲われた。

 頭を掌握されるその感覚には覚えがある。
 潜在意識だ。
 こんな時に支配しようと言うのか!

 劉備が、その周囲が危険に曝されようとしているこの時に!

 ふらつき、もつれてその場に崩れ落ちる。

 脳を引っ張り上げられる。
 ……苦しい、気持ち悪い。
 額を押さえて呻くと、何処かで悲鳴がする。苦しむようなその声は関羽のもののように思えるが、違うようにも思える。

 次いで聞こえた血、血、と狂ったように繰り返す叫び声も、誰のものなのか判然としな――――。



 ……いや、関羽とは誰だったか。



 自分にとって何だったのだろうか。
 ……いや、そもそも《下賤な混血》に、どうして自分が気にかける必要がある?

 はて、《自分》とは、何だ……?

 分からない。
 徐々に、確実に抜けていく情報を止める手立てが無い。

 私の名前は、何だったろう。
 それすらも分からなくなってしまう。
 このまま意識を消されてはいけない――――何故?

 この自我を留めることに何の意味があるのだろうか。

 ……間違ってる。
 こんなの間違ってる。
 私は、《返さなくては》いけないのだ。

 それが、当然のことであって、

 今まで、自分が器を行使していたことこそが誤りだったのだ。

 誘導されていく。
 けれど抗えない。

 脳を引く力を、受け入れてしまう――――。


「待て!!」

「夏侯惇!?」


 聞こえた声は間近だ。
 それにはっと意識が覚醒する。急激に浮上する感覚に頭痛を覚えた。
 自分の名前を口にした途端どっと押し寄せる疲労に吐き気。

 危なかったと、心の中で呟き――――固まる。

 ……ちょっと待て。
 私は今何を考えていた?

 慄然とした。


「……わ、私、今、関羽様を、」

「貴様! なんという出で立ちだ!」

「!」


 この声は、夏侯惇だ。

 立ち上がって壁伝いに声に近付く。夏侯惇の名を呟きながら彼の姿を思い出そうと記憶を手繰る。酷く時間がかかった。


「ああ、逃げるのに邪魔だから裾を破ったのよ……」


 これは……、これは……。

 ああ、関羽だ。自分の主。
 あんな風に思う筈がない尊いお方だ。


「……夏侯惇、あなたの望みどおりわたしはここから出て行くわ」

「何だと!? それに逃げるとは……」

「先を急ぐわ。追いつかれてしまう……」


 関羽は、この城を離れるつもりなのだろうか。
 ならば自分も――――と踏み出した足は動かなかった見えない力に固定されたかのように、床に張り付いて動かない。

 どうして?
 動かなければ、関羽と共に行けないではないか。


「……待て。――――持ってゆけ。丸腰では心もとないだろう」

「あ、ありがとう!」

「ふんっ! 俺は貴様がここからいなくなればいいんだ。せいぜい逃げ切るんだな。……まあ、幽谷がいれば容易いだろうが」

「……幽谷、」


 足が、動かない。
 行きたいのに、何かを恐れるかのように前に行くことを強く拒む。

 この期に及んで恐れるの?
 関羽に危険が迫っているのかもしれないのに、それ以上に何を恐れるというの?
 どうして、どうしてどうしてどうして!


「く……っ!」


 動け、動け!
 ここで、関羽に置いて行かれてしまえば自分は、もう、


 自分を保てる自信が無い!


『それの何が悪いというのか』


 悪い。
 悪いに決まっている。


『解せぬ。まこと、苛立たしい芥(ゴミ)よ』


 理解されなくても良い。
 芥であろうが何だろうが、私は構わない。そんなこと昔から知っているもの。

――――そこで、はたと気が付いた。


「今、誰と会話していたの、私……」


 周囲を見渡すが、誰もいなかった。
 聞こえる声と言えば自分や、関羽と夏侯惇くらいじゃないか。

 なのに誰かと会話をするなんて……。


「幽谷は、置いていくわ」

「……え?」


 その言葉を聞いた途端思考が止まった。
 私を、置いていく、と。
 関羽は確かにそう言った。

 はっきりと、幽谷を拒絶した。


「今は、幽谷とは一緒にはいられない」

「は? 貴様何を言って――――おい、待て!!」


 置いていく?
 私は不要だと?

 そんな……そんな。


 瓦解していく。


 がらがらと、がらがらと。
 壁が、呆気無く崩れていく。
 駄目だと分かっているのに止められない。

 置いていかないでと心が叫べば崩壊は加速する。

 誰に助けを求めれば良いのだろう。
 分からずに、誰の名前も呼べずに。
 幽谷はその場に力無く座り込んでしまった。全身から力が抜け、壁に触れていた腕が落ちた。


「関羽、様……」


 棄てられた。
 頭の中で、鈴のような声が小馬鹿にしたように言い放った。



‡‡‡




 恒浪牙は舌打ちしたくなった。


「まったく……本当に素晴らしい程丁度良く訪れましたね」


 目の前には一人の女性が立っている。
 頭から腰辺りまで真っ黒な外套で隠し、純白に赤い刺繍で龍の踊る仕立て良い服を纏う女性だ。顔も、外套から垂らされた絹に隠されてしまっている。

 女性は一言も発しない。ただ黙って佇むだけだ。


「犀煉をあんな状態にしてまで……そんなに邪魔をされたくないのですか、あなたは」

「……」

「……余程、嫌われているらしい」


 恒浪牙はちらりと背後を見た。
 そこには犀煉が力無く横たわっている。今は意識も無く呼吸も無い。あの女性を前にして為す術も無く、即座に仮死状態とされてしまったのだ。

 恒浪牙は女性に近付こうとして、はあと吐息を漏らして止めた。


「城が騒がしい……関羽さんがまた何かしでかしたのですね。ああ、いや、関羽さんが誘発してしまったのか。早く幽谷に合流しなければ――――」

「……止めて下さい」


 あの子が最後なのです。
 初めて女性が口を開いた。震えたか細い声だ。何かに怯えるような、泣きそうな。

 恒浪牙は目を細めて、しかしきびすを返した。

 一向に歩き出さない。


「……本当に、あなたという人は狡い」


 分かっていて、私にこんな酷いことをする。
 見下ろした恒浪牙の足には、彼自身の影が鎖となって絡みついていた。


「もうこの時を逃す訳にはいかないのです」

「そうですか」


 それはこちらも同じなのだけれど――――。


「ああ、もう……」


 溜息が漏れた。



―第八章・了―




●○●

 これにて第八章は終わりです。
 見ての通り夢主が精神的にヤバイです。

 犀華も沈黙している今、彼女はどうなってしまうのでしょう。



 ちなみに、はらからは十章まで行くつもりです。



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