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 その日、城内がやけに慌ただしかった。
 どうしたことかと、幽谷は恒浪牙が犀煉を捜しに出かけたのを見計らって部屋を出た。

 慌ただしいのは女官達だ。
 豪奢な衣服を大事そうに抱えた女官長を筆頭に、様々な器具を持った女官達が向かいの廊下を早足に通過していった。
 ……あちらは確か、関羽の部屋ではなかっただろうか。
 曹操が何か贈り物でもしたのか――――こんな状況で?

 怪訝に思案していると、不意に左に気配を感じた。鋭利な敵意だ。
 そちらに向き直った幽谷は全身が重くなったような感覚に襲われた。

 夏侯惇に好意を寄せる姫だ。……まだこの城にいたらしい。
 彼女は幽谷につかつかと詰め寄ると、何の脈絡も無く平手打ち。
 避けずに受け止めると、姫は歯を食い縛って睨めつけた。


「何故? 何故わたくしがこのような汚れた四凶などに……!」

「……は?」


 意味が分からなかった。
 怪訝に眉根を寄せると憎らしげに睨めつけられた。

 姫は家の思惑など関係無く夏侯惇に想いを寄せているとは、幽谷でも漠然と知っていた。
 それに自分がどうして関わってくる?
 彼女の憎悪が向けられる理由が掴めずに姫の様子を黙って眺める。

 すると、もう一発平手打ちをされた。

 夏侯惇が靡(なび)かないから幽谷に当たっているのだろうか?
 いや、しかしこの深窓の姫がそれでわざわざ四凶に接触してくるか?
 この――――凶兆に。


「あの、何故私が……?」

「気付いておらぬとは言わせぬぞ!! そなた、夏侯惇様を誑かしたであろ!?」

「たぶ……っ?」


 そこで初めて目を剥いた。

 それを白々しいと吐き捨てて姫は幽谷の胸座を掴む。姫なのだからこういった行為は止めるべきなのでは――――そう思うものの、この姫の剣幕に気圧されて口を噤んでしまう。
 ぐっと締め上げられて少しだけ息苦しい。


「そなたが誑かしたから……! あの方はわたくしを見ては下さらぬ! いつもいつも上の空で……そなたのような汚れた化け物なんぞにわたくしが負けるなぞあってはならぬのじゃ!」


――――この姫は、勘違いをしているのではなかろうか。
 夏侯惇が想いを寄せているのは、死んでしまった砂嵐であって幽谷ではない。幽谷に砂嵐の名残があるから気にかかってしまうのだ。
 だが、それを言ったとて彼女に分かろう筈もない。

 どうやって誤解を解けば良いのか――――。
 必死に頭を回転させていると、また姫が手を振り上げた。

 三度。

 理不尽な気がしてならないのだけれど、彼女を宥める術が無い。普通に声をかけるだけでも彼女の神経を逆撫でしかねないのだ。
 そもそもこういった場面に遭遇するのはこれが初めてだった。人の恋沙汰に巻き込まれることになるなんて……しかもこんな時に。

 幽谷は困窮した。誰でも良いからこの場を通りかかってくれないだろうかと心の片隅で願う。


「わたくしが、こんな……こんな……!!」

「誤解、なのですが……」


 やっとのこと言うと、また噛みつかれた。


「夏侯惇様が一方的に気があるのだと申すのか!? 何と身の程知らずな下賤が!」

「ああ、いえ……そうではなく、」


 また、手がくる
 これで四度目――――辟易した直後に、鋭い声を聞いた。



‡‡‡




「何をしている!」


 ぴたり。
 姫の手が止まる。ざっと青ざめた彼女は幽谷から離れ、声の飛んできた方向に向き直って居住まいを正した。

 そのあからさまに怯えた彼女を首を傾げて見つめていると、ふと腕を掴まれて強く引っ張られた。
 何故か、声の主――――夏侯惇の後ろに庇われてしまう。
 そうすると、更に姫に鋭く睨まれてしまうのだけれど……。


「彼女に何用だ」

「……いえ、わ、わたくしは、」

「ただ話をしていただけにございます。私は四凶、かつての夏侯惇殿のように、良く思われておりませんから、どうしても気になって仕方がないのでしょう」


 言い澱む姫に代わって答えれば夏侯惇が口をへの字に曲げる。気まずそうに、一瞥された。
 幽谷は一瞬だけ姫を物言いたげに見、夏侯惇の手をやんわりと剥がしてそっと二人から離れた。

 拱手してきびすを返す。


「待て、幽谷」

「恒浪牙を捜しております故、私はこれにて」


 咄嗟に思い付いた嘘をついて足早に去ろうとすれば、背中に彼の言葉が突き刺さった。


「関羽が顔良を討った為に、劉備が処刑されるそうだ」

「え……」


 どくり。

 足が止まった。
 全身が凍り付いたような感覚に鳥肌が立った。

 劉備が、処刑――――?
 ああ、猫族が内通していると疑われたのだ。
 だから、長である劉備が、処刑、されることに……。

 どくり。

――――止めなければ。

 その処刑は止めなければならない。
 早く!

 幽谷はひゅっと息を吸って駆け出した。


 後方で夏侯惇が呼んでいるが、それどころではなかった。


 彼女の頭にあるのは劉備の処刑と、あの酷薄な笑みを浮かべた劉備のみだったのだ。



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