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 翌日、ある程度身体も軽くなったからと外を歩いていると、すぐに恒浪牙に見つかって叱られた。
 身体はもう大丈夫そうだからと言うと、『私、医学の心得がありますけど?』と威圧感たっぷりの笑顔を向けられた。……あの男に気圧されてしまうとは、少しだけ屈辱だ。

 しかし、精神的な面も考慮して、恒浪牙同行の上で散策することは許された。ただ、鍛錬などは禁止された。
 それだけではない。犀煉に襲われたことを夏侯惇から伝えられたらしく、一人だけで行動することも堅く禁じられてしまった。

 廊下を並んで歩きながら、恒浪牙はふと提案する。


「幽谷。関羽さんと暫く距離を置きましょう。落ち着いた頃に話し合えば、きっと元の関係に戻れますよ」


 幽谷の足が止まった。


「……本当にそうですか?」

「え?」

「……いえ、何でもありません」


 恒浪牙が驚いたように振り返るのに、幽谷はかぶりを振って歩き出した。
 されど恒浪牙は目を細めて、幽谷を呼び止めた。


「そうですねぇ。四霊に《未来》は存在しません」


 そのように作られた捨て駒ですから。
 ゆったりとした声音にはしかし、冷たさも温もりも感じられる。
 その冷たさは誰に、その温もりは誰に向けられたものなのだろう。

 振り返って探るように見つめると、恒浪牙はふっと空を仰ぐ。


「結局、四霊は《道具》だ」

「そうですね」

「ですが、人と同じくして心を持っている。人を超越した力を持っているだけで、人と何ら変わらない。それなのに役目が終われば捨てられる《道具》の域を越えることは絶対に許されないのです。あなた自身、そのことが分かっているのであれば……悲しいと感じますか? 腹立たしいと感じますか?」


 あなたの願いは何ですか?
 悠然とした彼は幽谷に問う。

 つまるところ、恒浪牙は何の為に今ここにいるのだろう。
 彼自身の望みは一体何なのだろうか。


「私は、自分が四霊だという事実と、その宿命に従うつもりはありません。……ですが、消えることが必定の理であるのならば、その前に、四霊としてではなく、《幽谷》のやりたいことを全て果たした上で消え去りたい。――――誰の記憶からも」


 ……そうすればきっと、関羽ももう――――。
 空を仰ぐ。昨夜の関羽の表情が頭から離れない。あんな顔をさせてしまう自分なぞ、不要だ。であれば、やるべきことを果たしたその時、記憶からも消え去るべきなのだ。

 恒浪牙は苦笑し、


「やはり、そうやって逃げるのですね。あなたが選んだのは関羽さんではなく、自分を守る選択でしかない」

「それは、いけないことでしょうか」

「いいえ。《人間らしくて》良いと思いますよ。逃げという行為が悪いとは、私は思いません。かく言う私も大昔逃げてこんな風になってしまったのだからね」


 両手を上げて、苦笑めいた微笑を浮かべる。

 幽谷は数回瞬いた。


「……あなたは、どうして地仙になったのです。答えたくないのであれば、何故私の側にいるのか教えて下さい」

「究極の二択だね。どちらも答えづらいのだけれど……どちら片方だけでも教えなければならないかい?」


 恒浪牙は苦笑混じりに頬を掻き、「まあ良いか」と肩をすくめた。


「私が地仙になりましたのは、単純な理由です。……ただ、死んだ息子を永遠に私《達》の中で生かし続けておきたかっただけ」

「息子を……まさか、夫婦で?」

「最初はね。でも今は私一人です、私の妻は《消えて》しまったから。で、今あなたの側にいる理由なんですが」


 それ以上は深く話したくないらしい。
 幽谷は頷き、恒浪牙に続きを促した。


「ぶっちゃけた話、あなたはじきに覚醒する可能性が非常に高い。もし関羽さんをあなたの精神の支えにしていなかったならば、まだどうにかなったかもしれませんが。私に出来ることは砂嵐の時のように隔離して封じるか、潜在意識を眠らせる程度のことなのです。潜在意識を阻む障壁を作るのは幽谷、あなたに委ねるしか無い。以前、私はあなたに言いましたね。あなたの忠義は《毒》だと」

「それが、今の結果を生んだと……?」

「いいえ、まだ結果には到達していませんよ。まだ少し、かかりましょう。《幽谷》という自我は関羽さんに傾倒しすぎたのです。このままでは潜在意識は容易くあなたを乗っ取ってしまえるでしょう。関羽さんがここまで自我を揺るがす程の存在でなければまだましでした。あなたの絶対的忠義は人として素晴らしいものです。あくまで、人として。《道具》が、己が誰に使われているのか分からなくなってしまえば役立たずも同じこと」


 「失礼な物言いですみません」そこで恒浪牙は幽谷に深々と頭を下げた。
 しかし幽谷が何かを発する前に、


「潜在意識を最低限抑える為にあなたの側にいることを選んだのですが、今あなたの側にいる理由は、犀煉が気がかりなのと、あなたが《手遅れ》になった時止めて差し上げたいからですよ。《あれ》に同等で刃向かえるのって私くらいでしょうから」

「……犀煉が気がかりとは?」

「あの子が小さい頃から知っていますから。まあこれは泉沈もなんですけど。――――いやぁ、あの頃はまだ純粋に悲しんでるって感じだったんですけどねぇ。どうしてあそこまで歪んでしまったのでしょうか」

「は……?」


 急に真剣味が薄れ軽快な、間延びした声音に変わった。
 幽谷は困惑して眉宇を潜める。

 彼女に恒浪牙は視線で右を示した。

 従って見やれば、そこには夏侯惇が怪訝そうに立っていた。


「こんなところで何を話している?」

「いやぁ。ちょっと犀煉のことを。あの子あれで五十間近のおじさんなんですよ」

「「は?」」

「おや、知りませんでしたか。実質幽谷とは二十五・六程年が離れてますよ。あれで」


 ……初耳である。
 夏侯惇のことで急に話を逸らした恒浪牙は、不意に幽谷の腕を掴んで歩き出した。


「では、そろそろ幽谷殿を休ませて差し上げたいので、これで失礼致します」

「……そうか」


 幽谷を見たのは一瞬だけ。
 颯爽ときびすを返した夏侯惇を見送り、幽谷は恒浪牙に従った。


「夏侯惇殿とも、あんまり接触しない方が良いかもなあ……」


 恒浪牙の言葉に、疑問を感じながら。



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