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 分からない。
 どうすれば良いのか分からない。

 あそこでわたしは何をすれば良かったの?

 犀煉に殺されかけようとしたその時に脳裏によぎったのは泉沈の言葉だ。


『幽谷のお姉さんはね、関羽のお姉さんのお父さんのこと知ってるよ。公孫賛って人がお姉さんのお父さん』

『でもね、幽谷のお姉さんは君のこと、本当はどうでも良いから教えなかったんだよ。教えるつもりもないみたい』

『君はいつから、幽谷のお姉さんの重荷になっていたんだろうね』

『もう嫌われてると思うよ』


 くすくす。
 くすくす。
 くすくす。


 泉沈のあの小馬鹿にしきった無邪気な笑顔。
 何も知らない関羽を嘲笑する。

 泉沈よりもわたしの方が幽谷のことを分かっている。
 だって彼よりずっと一緒にいたのはわたし。

 だけど、だけど!

 幽谷に父親について問うた時の彼女の顔と、謝罪が関羽の胸を突き刺した。
 知っていた。泉沈の言う通り彼女は関羽の父親が公孫賛であることを知っていた。
 とすれば、泉沈の言葉は、まったき真実で――――。

 そんな考えが、関羽に二の足を踏ませた。
 助けなければならないとは思っているのに、助けても彼女は自分を嫌っているからと戸惑ってしまう。

 彼女の何を信じたら良いのか分からない。

 もしかして、徐州で犀煉に連れ去られた後ずっと会えなかったのも、本当は幽谷が関羽の元に戻りたくなかったからじゃないか、犀華というのも実は彼女の演技なんじゃないか――――疑い出したら切りがない。

 怖い。
 幽谷が、今はとても怖い。

 昔みたいに彼女を信じて、良いのだろうか――――。



‡‡‡




『――――は、本当に弱虫だよねー』


 誰かの声がする。
 ゆっくりと目を開ければ空の中に自分を見下ろす少年がいて、淡く微笑んでいる。

 その柔らかな面立ちに、見覚えがある。けれどもどうしたことか、彼の名前が出てこなかった。

 困惑するこちらの様子などお構い無しに少年は隣に腰を下ろして両手を後ろに突き、空を仰いだ。


『どうせまた、泣き疲れてここで寝ていたんだろ。こんなとこじゃなくって僕のところに来れば良いのに』


 誰だ、お前は。
 口が思うように動かないので、心の中で誰何する。
 しかし届く筈もない。


『皆もちゃんと分かってるよ。君は僕達の仲間だ。濫敦(らんとん)のお兄さん達も、――――が妹みたいで可愛いからからかってくるんだよ。君が泣く度に、本当は心の中で後悔してる。素直じゃないから、謝れないだけ』


 手を伸ばして頭をそっと撫でられた。
 ……その感触が、懐かしい?
 これが誰なのかも分からないと言うのに、見覚えがあったり、感触が懐かしかったり――――どうして?

 この人物が誰なの?


『ちょっと、ちょっと。――――、まだ寝るのー? 川で顔を洗って早く村に帰ろうよ。――――のお母さんがご飯を作って待ってるよ。薬も飲まなければね。またいつ病気になるか分からないんだからさ』


 薬? 病気?
 どうだったっけ。
 薬、なんて……飲んでいたっけ?
 病気なんてしていたっけ?


『また寝込んじゃったら僕、寂しいよ。君のことは妹でもあり、親友なんだもん。……あ、今君のお母さんと同じ年のくせにって思ったでしょ。笑うなってー』


 けらけらと笑う少年。靨(えくぼ)が可愛らしい――――。

 ……ああ、そうだ。

 この笑顔――――この笑顔だ。
 好きだった。
 彼はいつもいつも笑顔で。こっちよりもずっと年上のくせに見た目は少年で、自分と同じくらいの精神年齢で、無邪気で。

 ずっと仲良しだった。
 すっと一緒にいて、一緒に遊んでいた。病気になった時も毎日のように見舞いに来てくれた。一緒にいなかった日こそ少ないのではないだろうか、そのくらいに自分達は仲が良かった。


『どうしたの?』


 口が勝手に動く。自分の声だけは聞こえなかった。
 少年は『え……』声を漏らして目を丸くした。

 ややあって、眦を下げて目手で覆い隠す。


『言ったじゃん。――――は僕達の仲間だよ』


 おかしくなんて無い。
 病弱だけれど、戦えないけれど、欠点ばかりでしかないけれどそれでも仲間。
 ――――は、――――のままで良いんだよー。
 のんびりとした彼の言葉に、心が安らいでいく。

 だが、しかし。

 胸が痛い。
 頭が痛い。
 何故だろうか。

 段々と、頭の中が黒く塗り潰されていく。
 どす黒い何かに心も浸食されていく。

 ……止めろ、とは思わなかった。
 むしろ馴染みのある部分だったから、平然と受け入れた。否、一番長く付き合っていた感情だったからというのが大きいか。

 嗚呼……嗚呼、そうだった。
 自分はこれが苦痛の始まりだったのだ。
 そして、自分の最初の歪みは彼が生み出した。

 それから、自分は、自分は、自分は。

 嗚呼――――嗚呼、嗚呼!!
 憎い、憎い、憎い、憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い!!

 殺してやりたい。
 殺して、殺し尽くしてしまいたい。

 そうだ、全てはそいつが始まりだった。

 そいつの一族。
 そいつを取り巻く奴ら。
 全てが憎い。

 死んでしまえば良い、絶えてしまえば良いのだ!

 あんな奴らなど――――。


 大っ嫌いだ。




‡‡‡




 嗚呼、夢見が悪い。
 こんな形で思い出すなんて……吐き気で目が覚めてしまったじゃないか。

 ああ、もう。
 今のノリじゃこの殺気が呪詛に変わって誰かを殺してしまいそう。
 これでは収まるまで様子を見に行けない。

 人間達の様子はどうだろうか、確かめたいのだけれど。

 人間達には関羽のことは話が来ているだろうか。幽谷の状態を知る術はあるだろうか。
 早く知りたい。

 あの愚かな女の娘が、自分の思う通りに動いてくれたのか。


「……ねえ、雪蘭。君の言う通りにはならないよ、君はもう僕の邪魔を出来ない。あのまま犀煉を覚醒させていれば僕と君の娘が出会って――――こうして利用することも無かったのにね」


 僕は君の娘を使って、目的を果たしてみせる。
 これでもあの世で哀れだと言うのかい? 僕を恨まずに、あの腹立たしい顔で見てくるのかい?


 本当に、君は気味の悪い女だよ。


 劉――――に似た笑顔を浮かべやがって。


 野垂れ死んで清々した。



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