陣屋から離れた林を歩きながら、幽谷はじくじくと痛む頬を撫で、細く吐息を漏らした。

 劉備に従って関羽達を迎えに行く際、幽谷は偶然にも夏侯淵に出会った。
 四凶にも強い偏見を持つ彼との問答の末に殴られた頬は、結局痣になってしまった。

 先程まで関羽や世平に散々怒られていた彼女である。その心中は、当然ながら晴れやかでなく、どんよりと曇っていた。折角目隠しが外せたのに、開放感などは全く感じなかった。

 しかも、痣になってしまったことで、結局劉備も泣いてしまった。
 確かに殴られた時は痛かった。仕返ししてやろうかと一瞬考えたくらいに痛かった。でもまさか、劉備が泣き出すくらいに痣になってしまうなんて思っても見なかったのだった。
 やっぱり、あの時避けておいた方が良かったのかしら。……更に煽ってしまいそうな気がするけれど。
 人間との付き合いは――――特に夏侯淵殿と話す時はもう少し気を付けた方が良いかと、幽谷は心に刻む。果たして、それが吉と出るかは考えづらいのだが。

 今、彼女と共に歩いているのは、董卓に会いに行った者達だ。他の猫族は先に桑木村へと行っている。こちらは劉備の歩みに合わせているので、遅いのだ。


「この辺りで一度休憩するか。劉備様、お疲れでしょう。あちらの岩に座ってお休み下さい」


 世平の示した方には、子供一人が座る丁度良い高さと幅の岩がある。
 劉備が世平に礼を言って岩に座ると、関羽達もその周辺に集まった。


「劉備の足に合わせてるからわたしたちだけ遅いけど、みんなはもう着いたかしら?」

「どうだろう。まぁ、みんなには村の手前で待つように言ってるけどね」


 関羽の問いに蘇双が答えた。


 すると劉備が唐突に、はしゃいだ声を上げた。


「おさんぽたのしー! みんないっしょでうれしいの。ね、関羽」

「そうね。劉備、疲れていない?」

「平気だよ」

「もう少し休憩したら、村に向かうか。あんまりのんびりしすぎるのもよくねぇからな」


 村という言葉に反応したのか、関羽は不意に表情を陰らせて頷いた。

 世平は訝った。


「どうした、元気ねぇな? 人間たちからの差別に参っちまったか?」

「少しね……。話には聞いていたけど、実際目の当たりにするとやっぱり堪えるわね」


 これから行く村も、きっと同じような反応をするのだろう。その時、また彼女らが傷つくのだと思うと、胸が痛んだ。


「ねえ、幽谷。あなたは、猫族の村に来る前は、四凶だってずっとあんな風に虐げられていたの?」

「……いえ。皆様方に比べますと、もっと酷かったかと。全裸で宴に出され見せ物にされましたし、その場で刺されたり鈍器で殴られたり熱湯をかけられることもございました。満足の行く結果を残さなければ、背中の皮を――――と、これ以上は言わない方がよろしいですね」


 すでに関定と関羽が青ざめている。

 幽谷は二人に謝って、口を閉ざした。
 幽谷の発言によって重くなってしまった雰囲気を晴らすかのように、張飛が話を戻した。


「つ、つーかなんだよ、化け猫妖怪の末裔とか獣化するとか。勝手に話し作ってんなよなー」

「残念ながら、人間の世界ではボクら猫族に対する認識としてそれらの話は広く伝わってるらしい」


 化け猫――――金眼。
 また、気分が悪くなる。
 幽谷は胸を押さえて僅かに俯いた。

 しかし今回ばかりは彼女の様子に気付く者など、誰もいなかった。


「オレら本当にそんな妖怪の末裔なの?」

「馬鹿関定! 同じ猫ってだけで安易に結びつけて、人間どもが勝手に言ってるだけ」


 だが、獣化だけは作り話ではないと、世平は言った。稀に、そういった者がいるそうだ。本当かどうかは、定かではないのだが……。
 胃の腑の辺りを撫でながら、幽谷は思案する。
 もし獣化なんてする者が現れたら……人間は、排除しようと動くだろう。ややもすればそれは国全体で起こる。

 まあ、そうなれば自分がその全てを殺すだけだが。

――――その時である。

 幽谷は弾かれたように飛ヒョウを取り出して茂みに向かって投擲した。


「ぎゃあっ!」


 悲鳴。

 幽谷は更に金属で出来た円環――――圏を取り出す。直径八寸程であろうそれは一対で、握る場所以外の外縁部が鋭利な刃物となっている。
 それらを構え、茂みを睥睨する。


「出て来たらどうだ」


 低い声をかければ、即座に茂みが揺れ、三人程の屈強な男達が現れた。彼らの頭には、一様に黄色い頭巾が巻かれている。
 紛うこと無く、黄巾賊だ

 彼らは下卑た笑みを浮かべて、


「おいおい、四凶に十三支がいるぜ」

「見世物小屋にでも身売りに行く気か?」


 三人。その中に飛ヒョウが刺さった者はいない。呻き声がまだ茂みの中からしている。だがそれは演技であると、彼女に見抜けない筈もなかった。恐らくは飛び道具か何かを持っていて、こちらの隙を突いて攻撃するつもりなのだろう。でなくば出て来た三人の余裕そうな表情があまりに不釣り合いだ。


「へー、こんなところで早速出てきやがったか」

「俺らを知ってるのか。ならば話は早い。食料、金品財宝、全てこの場に置いて行け!」

「けっ! 何を言うかと思えば、まるでただの野盗じゃねーか!」


 唾棄するように言い放つ張飛に、黄巾賊は演説でもするかのような大音声で、己らを義勇軍と言ったばかりか、支援を当然とまで言い切った。
――――話には聞いていたが、とんと、救いようが無い。

 これが、曹操達と同じ人間なのだ。


「すごい勝手な言い分だな。そうやってオレたちから無理やり食い物巻き上げる気なんだろ?」


 関定の言葉に頷いて同意を示す。

 すると不意に、腰に巻き付く者があった。


「な、なに? この人たち……こわいよ……」


 幽谷は劉備を見下ろし、ふ、と彼女に笑いかけた。

「……劉備様。私から、絶対に離れませぬよう。必ず私がお守りいたします」

「う、うん」


 そうして、張飛と関羽が黄巾賊に対峙する。


「関羽様、張飛様。お気を付けて」

「おう! よっしゃ! 行くぜ、姉貴!!」


 幽谷は皆に気付かれないように飛ヒョウを茂みに隠れた黄巾賊に投げつける。殺すつもりで投げたのだが、痺れ薬を仕込んでいる物を使ったから、万が一当たり所が違っても、暫くは動けないであろう。

 果たして、茂みからの呻き声は、ぱったりと聞こえなくなった。

 されど、刃のぶつかる音に掻き消され、誰も気付かなかった。



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