39
深夜になって、ふらりと城を歩く。
運良く部屋に夏侯惇も恒浪牙も別々に呼ばれて不在だったので、抜け出すのは簡単だった。
運び込まれた時に比べて精神は安定した。醜態を夏侯惇の前に晒したことを恥ずかしく思えるくらいには。
せめて犀華がいれば、こう言う時対話が出来たかもしれない。対話が出来れば、幾らか気も紛れたろうに……。
一体、犀華はどうしてしまったのだろう。
無理矢理に術をかけてしまったから何か異変でも起こってしまったのか?
恒浪牙にも皆目見当も付かないようで、このことに犀煉が非常に機嫌を悪くしていた。
犀煉は、ずっと幽谷の存在が気に食わなかっただろう。この身体は本来彼の最愛の妹犀華のものだったのだから。
それでも自分の教育係として、面倒を見てくれた。
長い年月の中、どれだけの忍耐を要したか。
想像も付かない。
犀煉は妹を愛していただろう。
犀華もまた、唯一己を見てくれた兄を深く深く愛していた。
それは絶対に犯してはならぬ禁忌。けれども、二人にとっては掛け替えの無い大切な感情だったに違い無い。
嗚呼、自分は本当に在ってはならない存在だ。
四霊(じぶん)を作り出す為に犀華は利用されたのだ。
全ては、仙人達の勝手。
――――ふと回廊を歩いていた時、空を仰いで一羽の烏が飛んでいるのを見つけた。
濃紺の中で分かりづらいがあの漆黒は確かに烏だ。
何とはなしにそれを目で追っていると、不意に後ろに気配を感じた。
振り返った瞬間――――視界に銀が煌めく。
‡‡‡
浅く斬られた肩を押さえて幽谷は後退した。
彼のその赤い隻眼に見えるのは明確な殺意だ。
後退して犀煉を困惑して睨みつけた。
「何をするの、煉。武官に呼ばれていた筈では――――」
「お前を殺す」
「え?」
目を剥いた。
幽谷が何事か問いかけると、「もう生かしてはおけない」と単調な声で答えられた。
「お前を生かしておけばじきに支配される。そうなる前にお前を消す」
頭によぎったのは潜在意識。
いつ支配されるか分からない幽谷を、彼は排除したいのだ。
犀華の為に。
「煉……」
一瞬だけ――――一瞬だけ殺されようかと思ってしまった。
だがそれだけはいけないと思い直して外套の下に手をやった。匕首を取り出して身構える。
犀煉は鼻で笑った。
「その毒で弱った身体で何が出来る」
「……」
恒浪牙も指摘していたことだ。
幽谷にその自覚は無かった。
彼に言われたことで、身体の異変にもようやっと気付き始めていた。
思うように力が入らないことも、分かっている。
身体はガタが来ていたのだ。自覚していなかったから、今まで普通に過ごせているつもりだっただけ。
それに加えて、漫ろな注意力も手伝って戦闘力は著しく低下した。
出来れば一生気付きたくなかったことだった。
そんな今の自分が犀煉に勝てるとは思えない。
けれども、まだ死ぬ訳にはいかなかった。死ぬにはあまりにも《気がかり》が多すぎるのだ。
「悪いけれど、まだ私は死ぬ訳にはいかないわ。私は、まだ……」
「一瞬、殺されたい顔をしていたが?」
「……それでも、私は」
「今の《お前》にそれ程価値は無い。抑止力の役目ももう効力が無くなりつつあるのだ。お前が生きていられる時は少ないだろう。ならばまだ意識に支配されていないうちに滅した方が良い。――――犀華の為に」
やはり犀華の為だ。
犀煉が駆け出すのに、幽谷は後ろに飛び退いた。
懐から札を取り出し犀煉に向けて放つ。
が、犀煉に効力を発揮することも無く斬り捨てられた。
幽谷は舌打ちして犀煉に肉迫する。
首を狙って振り上げるが犀煉の匕首に弾かれる。
前までの彼女ならその程度で取り落とすことは無かっただろう。
……しかし。
カラン、と。
堅く冷たい床に幽谷の手を離れた匕首が落ちた――――。
「あ……!」
歯噛みして犀煉から距離を置こうとすると、その前に首を掴まれ押し倒された。
背中から倒れ込み、衝撃に一瞬呼吸が止まる。
咽を圧迫していた手が離れたかと思うと、額に匕首の切っ先が当てられた。
「……っ」
「安心しろ。すぐに楽になる。犀華も、お前も」
殺される!
ぎゅっと目を瞑ったその瞬間である。
駆ける足音が聞こえたかと思えば、不意に犀煉が幽谷から離れた。
直後、真上を通過した細長い物。
欄干に突き刺さったそれは剣だ。幽谷も見覚えがある。
上体を起こせば駆け寄ってきた夏侯惇に背中を支えられた。
「大丈夫か」
「……はい」
まさか夏侯惇に助けられるとは思わなかった。
彼がここに駆けつけたことに内心驚きつつ、彼の手を借りて立ち上がる。
犀煉が飛び退いた方を見やるが、そこにはすでに彼の姿は無かった。
けれどもそちらをずっと見つめていると、不意に夏侯惇が声を張り上げた。
「おい、貴様!」
少し驚いて夏侯惇を見るが、彼は別の方向を見ていて。
視線を追って首を巡らせた幽谷は目を瞠って声を漏らした。
「……関羽様」
びくりと彼女の身体が震える。
「あ、わ、わたし……」
「俺が来る前に何故動かなかった! あのまま、主が部下を見殺しにするつもりだったのか!?」
「そんなこと……っ」
ただ、まだ分からないのだ。
関羽はまだ分からない。決められない。
いつからそこにいたのか分からないが、夏侯惇の口振りでは犀煉に押し倒された時にはすでにいたのだろう。
幽谷は関羽から目を逸らし、ふっと身を翻した。
「私は私室に戻ります。先程は助けていただき、ありがとうございました」
「待て。その身体で無駄に動けば余計に――――」
「問題はありません。私は四霊ですから」
幽谷が曹操の毒で身体が弱っていると知られてはならない。知ればもっと関羽を苦しめ追い詰めることになる。
幽谷は彼らを振り返ること無く、関羽から逃げるように早足に立ち去った。
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