38
――――負けた。
幽谷は愕然と、己の手から弾き飛ばされ地面に深々と突き刺さった匕首を茫然と見つめた。
私が、夏侯惇殿に、負けた?
そんな、筈は――――。
頸動脈に添えられた剣が日の光を反射する。
剣が、お前は負けたのだと嘲笑っているように思えた。無機質な物にそんなことがある筈もないのに。
ぎりっと歯軋りして夏侯惇を睨め上げた。
「いつの間に……」
「……」
夏侯惇は鼻で笑った。
「違うな。お前が弱くなったのだ」
「私が? 有り得ません」
四霊は人以上の膂力(りょりょく)を持つ。
そう簡単に人に負ける訳がないじゃないか。
何を言っているのだと訝れば、彼は舌打ちし剣を下げた。
「先程の兵士との手合いでも、今剣を交えてみても、俺の勘違いなどではなかった。貴様はずっと気が漫(そぞ)ろだ。俺でも簡単に勝てる程、隙が多い」
「そんな……」
己の両手を見下ろし、幽谷は目を剥く。
漫ろだなんてつもりはなかった。草兵との鍛錬だって、しっかりと集中出来ていた――――《つもり》だ。
頭の中で、何かが崩れるような音がした。
……嗚呼、これでは本当に役立たずじゃないか。
関羽に信用されずに、武すらも疎かになっているなんて――――。
《幽谷》に存在する意味が、無くなる。
その時、頬を何かが伝った。
夏侯惇が息を呑むのが分かった。
幽谷はそっと頬を撫でてその濡れた感触に再び目を剥く。
そして奥歯を噛み締めて懐から柳葉飛刀を取り出し己の太腿に突き刺したのだ!
一度だけではない。二度、三度、四度――――何度も何度も突き刺した。
夏侯惇がその手を掴んで止めさせても、そのまま強引に振り下ろす。
錯乱したよう自照する幽谷に、夏侯惇は舌打ちして彼女の頬を平手で打った。乾いた音がした。
幽谷の動きが止まった隙にと手から柳葉飛刀を取り上げ遠くに放り捨てる。
双肩を掴んで強めに揺さぶればはっとして夏侯惇を捉える。
赤い目から、水が流れていた。
‡‡‡
とにかく傷を治そうと、夏侯惇が自室へ精神の弱り果てた彼女を連れ込み、彼が汲んだ水を傷にかけた。勿論、傷が治れば水はすぐに外に捨てた。
それから恒浪牙を呼んだ。
恒浪牙は幽谷の姿を見るなり眦を下げ、彼女をそっと抱き寄せた。背中を撫で、難しい顔をする。
「……相当、精神的に弱っていますね。これでは泉沈の思惑通りだ」
「泉沈とは……あの猫族の四霊のことか」
「ええ。関羽さんから幽谷を拒絶させれば、幽谷は簡単に弱る。今の彼女にとって、関羽さんへの忠義こそが存在意義でしたから。曹操殿から毎日のように料理に毒を仕込まれて耐えられていたのも、それ故。幽谷に効く薬を捜すのも骨が折れるでしょうに……」
責めるように夏侯惇を見やる。
けれど夏侯惇は眉根を寄せた。
「曹操様が幽谷の料理に毒を? そんな話は幽谷からも聞いていないぞ。曹操様は犀華を刺した、それだけではなかったのか?」
「あなたに言う筈がないでしょう。あなたは曹操殿の臣下だ。言えば必ず悪化の方向へ向かうのですから。幽谷の身体にも、確実に異変が出てきている。戦の際、術をかけたばかりで安定していなかったとは言えど、彼女は満足に動けていなかった。動きが格段に鈍っていた。本人もそこまで酷いとは自覚はしていなかったようですが、他の者から見ても著しかった筈です」
そこで、えっとなる。
「……では、俺に負けたのは――――」
「毒によって生じた身体能力の衰えが現れ始めたということです。幽谷の精神が弱ってきていることも起因していますが、そちらの方が大きい」
だが毒ならば恒浪牙が解毒剤を調合すれば良いのではないのかと問う。
返ってきたのはキツい眼差しだった。苛立ちがありありと浮かんでいる。
「あのですねえ……毒が効かないと言うことは、同時に薬も効きづらい身体でもあるということなのです。毒と薬は背中合わせのものなのだから。それに毎日のように毒を仕込まれては、幾ら良く効く解毒剤を用いたとて意味が無いでしょう」
解毒剤を用いても毎日であれば効く訳がない。
それが今になって出始めたのは幽谷自身の精神が弱った為に他ならぬ。
今の幽谷は酷く脆い。
これでは危ないと、恒浪牙は珍しく険しい顔で呟いた。
「……取り敢えず今の彼女を外に出す訳にはいかない。今日のところは、あなたのお部屋で休ませておきましょう。何処にも出さぬよう。明日の昼に様子を見て、部屋に戻しましょう。どうせ犀煉も犀華殿にしか興味を持ちませんし、部屋に戻らなかったからといって、気配があるのなら気にすることも無い」
私が最悪の事態を招かぬようにすれば良いだけのこと。
目を細めて幽谷を見つめる恒浪牙は、夏侯惇に冷たい視線を向けると、
「少々外に出ていて下さいね」
有無を言わさぬ笑顔で威圧した。
夏侯惇には、逆らえなかった。
.
- 209 -
[*前] | [次#]
ページ:209/294
しおり
←