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帰城して僅か二日……この忙しい時に、彼女は――――砂嵐から客の簪を取り上げた姫君は城を訪れた。
曹操や夏侯惇は勿論、袁紹との戦に臨む他の将達を労いたいと大量の兵糧を携えての訪問であった。
彼女は夏侯惇が暇であることを見計らって接触する。知識もあるようで時々将達と兵站の兵士などと親身に話し込む姿も良く見受けられる。
それに加えて、彼女の父親は曹操に大恩があるらしく、彼の放った間者からの報告も曹操のもとにもたらされた。
彼女の持ってきた兵糧も、曹操にとっては嬉しい土産だっただろう。
幽谷は、城の中を歩いていると良く彼女と擦れ違った。相手は露骨な嫌悪を示すが、一応の敬意を払って拱手する。
彼女の顔を見る度に、胸がざわめく。
幽谷としては砂嵐が客から譲り受けた簪を返してもらいたかった。本当に気に入ったようで、今も頭にその簪を挿しているのだ。
自分は砂嵐ではない。それは十分承知していると言えども、あの客の思い入れのある簪を彼女のもとに置いたままにしていて良いのかと思うのだ。
されど、波風を立てぬようにと気を付けていると、やはり話しかけることは出来ない。話しかけるだけでもどんな騒ぎが起こるか分からないのだ。
今は、そんな場合では無い。
犀煉にも――――彼は幽谷達が帰城したその翌日に戻ってきた――――そう叱られた。
分かっている。
分かっているのだけれど、何かを気にしなければ正気でいられなかった。
関羽は幽谷とかち合えば表情を強ばらせて逃げてしまう。猜疑の眼差しが、幽谷の心を深く抉る。
感情を乱している訳にはいかないのに、心は言うことを聞いてくれないのだ。
全ての雑念をつかの間だけでも捨て置けないかと、苦肉の策として一人誰もいない鍛錬場の中央に座り目を伏せて瞑想する。
しかし、それは中断させられてしまう。
「誰かおられるのですか?」
「……!」
目を開けて扉の方を見やれば、そこには一人の兵士がいた。……確か、関羽が曹操の下で従えていたという部隊の草兵だったような覚えがある。犀華としてこの城に来たばかりの頃に会った筈だ。この辺りはまだ記憶が曖昧なので詳しくは思い出せないのだが……多分、確かだ。
立ち上がって会釈すると、彼は口角を弛めて駆け寄ってきた。
「お一人で鍛錬をなされておられたのですか?」
「ええ……四凶がいれば邪魔になりましょう」
淡々と言えば、彼はふっと眦を下げた。申し訳なさそうに肩を落とす。彼がそんな態度を取る必要は無いのに。
幽谷が不思議そうに草兵を見つめていると、ふと声を漏らして幽谷を呼んだ。
「一つお願いしたいことがあるのですが」
「何でしょう」
「俺に稽古をつけて下さいませんか」
「稽古?」
怪訝に、鸚鵡返しに問えば草兵は力強く頷いた。
曰く、幽谷の武は凄まじい。それ故に幽谷に稽古をつけてもらえれば、時間はかかるかもしれないが強くなれるかもしれない、と。
……本当にそうなのだろうか?
「ですが、私は四凶です、周りの顰蹙(ひんしゅく)を買われるのでは?」
「構いません。それに俺は、幽谷殿が、皆が言うように汚らわしいとか下賤だとは思いません。むしろ、関羽殿への忠義は尊敬に値します。ですからどうか、お願いします!」
幽谷の表情が一瞬だけ変わったことにも気付かず、草兵はがばりと頭を下げる。
幽谷は動揺を押し込めて、暫し思案した。
そうして、やおら頷く。
「……分かりました。あなたがそれで構わないのでしたら」
「っ、本当ですか!?」
表情を晴れやかにした草兵に気圧されて一歩後退りする。
しかし、すぐに気を取り直して彼から数歩離れ向き合った。懐より匕首を取り出し、構える。
「では、好きに斬りかかってきて下さい。まずは、あなたの癖を見ましょう」
「はい! お願いします!!」
草兵は剣を構えると、一瞬幽谷を探るように見つめた後、地を蹴った。
‡‡‡
「――――今すぐに直すべき癖は、これくらいでしょうか」
幽谷は、目の前に座り込む草兵を見下ろして淡々と告げた。
涼しい顔の幽谷とは反対に、草兵は息も絶え絶えだ。暫くは立てそうにない程に疲れ果てている。さすがに痛めつけ過ぎたかと後悔した。
その場に屈み込んで顔色を覗き込んだ。
「大丈夫ですか」
「え、ええ……っ取り敢えず、これからは……幽谷殿の、指摘した点を中心的に、やります……」
「あなたが意識すれば良いことです。それが直り次第、時間を要する点を改善します。よろしいですね」
「はい……っ」
拱手しようとしているが、手に上手く力が入らないようだ。無理にしても身体がキツいだけ。幽谷はそれよりもまず身体を休めろと制した。
「では、私はこれで失礼致します」
「はい……俺は、暫く、鍛錬してます……」
「……ご無理なさらぬよう」
幽谷は彼に拱手して、鍛錬場を出る。
すると、丁度向かい合う廊下に関羽が立っていて、目が合った。
途端に関羽は身体を大袈裟に震わせて走り出してしまう。
ズキリ、と。
胸に刃物が突き刺さる。
幽谷は胸を押さえて奥歯を噛み締めた。
「……関羽様」
呟いて、ふと気配を感じた。右に視線をやる。
そこには夏侯惇が腕組みして壁に寄りかかっていた。とても険しい顔をしている。
幽谷が拱手すれば彼は腕を解いてこちらに歩み寄ってきた。
「先程の手合い、見せてもらった」
「……あれは手合いと言う程のものでは――――」
咽に押し当てられた剣が幽谷の言葉を遮った。
「な……」
「俺とやれ」
彼の隻眼には、怒りのような光が見えた。
先日の夜、夏侯淵と共にいた時に向けられたものとは違う、失望を孕んだ光だった。
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