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どうしてか、彼は頗(すこぶ)る機嫌が悪かった。
幽谷の腕を掴んで廊下を大股に歩いていく夏侯惇に何も言えずに、ただただ大人しく足を動かす。
夏侯淵を部屋へ帰らせた後、彼は幽谷の手を掴んで無理矢理に部屋へ戻そうとした。拒絶する力も無かった幽谷はそのままふらふらとついて行っているのだが、忙しなく足を動かすことを強制されているので少々キツい。
ままに眩暈を起こしているけれど、何とか転ばずに済んでいる。だが、正直もっとじっと休んでいたかった。
このまま倒れることが無ければ良いと思った矢先に何度目かのくらりとした眩暈に襲われる。咄嗟に立ち止まってしまったけれど、夏侯惇に腕を引かれてそのまま前のめりに倒れ込んでしまった。
膝を打って片手を冷たい床に付いて身体を支えると、夏侯惇もさすがに足を止めて慌てたように手を離した。
手を差し出そうとして、躊躇う。
幽谷は一瞬だけさまよった夏侯惇の手を一瞥し、一度かぶりを振るとそのまま立ち上がった。
謝罪と共に頭を下げればばつが悪そうに顔を背けられた。
「……それは、あの地仙がかけたという術の影響か」
「違うかと存じます。……あくまで私の感覚ですので、恒浪牙自身に相談してみないことには確証は得られませんが」
その恒浪牙は、まだ兵士達の中を奔走中だ。
夏侯惇もそれを知っているから、苦々しい顔をするだけに留める。
「再び戦になるまでには整えておきますから、こればかりは誰にも他言なさいませぬよう、お願い致します」
「……女にも黙っているつもりか?」
幽谷は寸陰の間を置いて頷いた。
夏侯惇は怪訝そうに彼女を見、隻眼をすっと細める。
彼の目にも、関羽が幽谷と距離を置こうとしているのが分かるようだ。そして、そのことに曹操が満足していることも。
関羽が幽谷を避ける理由は泉沈のもたらした情報に他ならない。だが、曹操にしてみれば原因はどうでも良い。関羽が幽谷を遠ざけようとする、その事実だけあれば十分なのだ。
夏侯惇は曹操が関羽に何かを吹き込んだのか、そんな風に思っただろうか。
このまま行けば、関羽に傾倒しきった曹操を元に戻す為に、関羽を排他――――なんてことにもなりかねない。
さすがにそれは避けておくべきか、と、彼女は口を開いた。
「関羽様は、戦のさなかに泉沈に何かを言われたようです。恐らくは、それが原因なのでしょう」
関羽の父親が誰なのか――――詳しい内容までは話す訳にもいかず、その事実だけを話す。
すると夏侯惇はさして驚く風も無かった。
「……あの猫族の四凶――――いや四霊、か。あれはやはり袁紹軍にいるのか」
「はい。呂布との戦いの後、猫族と共にいたようです。泉沈がいたことはご存じだったようですね」
「報告には聞いていた。もっとも、銅鑼が鳴る少し前だった為姿を確認してはいないが。頭に矢が突き刺さっても、死ななかったらしい。四霊は皆そうなのか?」
「いいえ。泉沈だけです。あの子は死ねぬ身体に作られております故。私や煉であれば、すぐに処置しなければ死ぬでしょう。《死ねない》泉沈以降の四霊は皆、《死ににくい》身体であるだけです」
こちらに戻るまでに恒浪牙に聞いた話では、そう。
そして、泉沈は四霊達の中で唯一、四霊を創り出した天仙と接触している存在でもある。
彼を説得すれば、ややもすればその天仙に接触が叶うやも――――。
「泉沈は、呂布との戦いでは違う姿だったな。人格も違っていた。あれも、あいつだけの現象なのか?」
「……いえ、それは四霊皆同じです。あの時は彼の中にいる潜在意識が、表に出てきたのです」
「では、お前達の中にもいると」
「恒浪牙の話では、そのように」
だが泉沈は潜在意識と同居が叶っているようだ。
幽谷とは違う。
泉沈という四霊は、幽谷でも特殊だと思えた。
彼は一体いつ生まれたのだろう。恒浪牙に問うても、曖昧に濁されるだけで教えてくれることは無かった。その上、酷く悲しげな顔をするのだ。まるで泉沈の過去を守ろうとしているかのようにも思えてならない。
「……幽谷?」
「――――ああ、いえ。泉沈がいるから、煉も帰りが遅いのかもしれませんね。下手な争いをしていなければ良いのですが……犀華殿が不安がられます」
そっと胸を撫でるが、反応は無い。
戦場に出してしまったことで疲れてしまったのか、彼女は全く反応を示さない。
それがほんの少しだけ寂しい。
伏せ目がちに視線を下に落とす幽谷を見つめる夏侯惇が、ふと口を開いた。
「もう一つ訊いても良いか」
「どうぞ」
「四凶で言うお前は饕餮(とうてつ)だったか。……では、四霊ではお前は何に当たる?」
「……それは、恒浪牙に絶対に知ってはいけないと言われております」
曰く、知ってしまうと乗っ取られやすくなってしまうとのこと。
乗っ取られてしまえば本来在る筈のなかった《幽谷》は消えてしまう。そうなってしまってはもう手遅れだ。彼はそう幽谷に言い含める。
「……私は、元々生まれることの無かった意識なのだそうです。ですから、泉沈のようにはなりはしないでしょう」
「つまり、お前の言う潜在意識が表に出てしまえば、お前は消えるということか?」
「そうなります」
頷いて――――はたと気付く。
はて、何故自分は夏侯惇にこんな話をしているのだろうか。
関羽も知らぬ幽谷の深い問題を、何故自分は夏侯惇に明かしてしまっているのだろう。
彼は、曹操の臣下だと言うのに。
「……すみません。話し過ぎたようです。これも――――」
「内密にしろと言うのだろう。別に、今更増えても変わらん。それに、時期も時期だ。余計な情報を錯綜させるも曹操様のご負担となってしまう」
幽谷は拱手し、深々とこうべを垂れた。
「では、私は部屋に戻ります」
「送っていく。倒れた時誰もおらねば地仙を呼べんだろう」
「……お手数おかけ致します」
夏侯惇が歩き出すのに、幽谷は一瞬だけ目を閉じ、そっと従った。
――――理由など、彼女は分かっている。
ただ、認めてはならぬと律しているだけなのだ。
自分と、《彼女》は違うのだから。
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