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 兌州に戻ったその日の夜、幽谷はあの中庭に行かずにはいられなかった。
 あれから犀華に戻る気配は全く無く、それを恒浪牙に相談しようにも彼は負傷した兵士の手当に奔走している。おまけに犀煉も未だに戻っていない。

 一人部屋にいるとどうしても思考が否定的な方向に行ってしまうので、何かで気を晴らしたかった。
 だが、唯一安らぐ水辺にいても、どうしても関羽との今後にについて考えてしまう。
 池を見つめながら階段に座り、最終的な行く末を考え恐れ戦(おのの)く。手が震える。胸の中がさっと冷えていく。
 片手で顔を覆い、長々と嘆息した。

 自分がこんなにも恐怖するなんて……一体どれだけ関羽に依存しているのかと、誰かが頭の片隅で呆れかえる。
 関羽の傍にいることを許されなくなった私は、どうすれば良いというのだろう。

 関羽に捨てられれば、猫族のもとにいても苦しいだけ。
 嗚呼、独りになるのか。

 そうなることが、今では一番恐ろしい。
 昔だったら――――昔だったら平気だったじゃないか。昔のままでいれば……まだ、人の心を持てていなかったら、どんなに楽だっただろう。
 いや、そもそも劉備に拾われる以前、もしくはあの滝壺で死んでいれば良かったのだ。
 そうすれば、こんな風にならずに済んだ。
 関羽達と縁が繋がることが無ければ、全てが始まる前に終われたのだ!
 ぎりっと歯軋りして立てた膝に顔を埋めた。

 すると心の最奥がじりじりと灼けるような、些細な痛みを感じた。

 犀華が何かを訴えているのではない。彼女であればこんなに深くはない。もっともっと深い場所だ。幽谷にも到達し得ない深層心理よりももっと奥まった場所――――。


『返せ』


 また、声が聞こえる。
 顔を下れば、池が仄かに光を放っているように思えた。

 まさかまた潜在意識が何かをしようとしている?
 眉根を寄せて警戒すれば、ふと池に波紋が広がって、中央に薄い影が生じた。

 透明だったそれはゆっくりと肉を付け、色を帯び、女性の姿と変わる。
 しなやかな肢体はどんな画家にも表現し得ないきめ細かく美しい肌を持ち、錦糸より――――いや、蜘蛛の糸などよりももっともっと細い、七色に煌めく髪は膝程にまで真っ直ぐに流れる。
 裸体の女性に艶めかしさなど無い。いや、あるにはあるが、神聖たる気に任されているのだ。

 まるで人に到達し得ない、神の領域にだけ存在する芸術品。

 空よりも澄み、水よりも透き通った一対の宝石が、幽谷を真っ直ぐに射抜いた。

 紅唇が薄く開き、しなやかな手を差し出す。

 幽谷は動けなかった。
 手を取らなければという内側からの衝撃を、理性が必死に押し止めた。

 行ってはいけない。
 行かなければならない。
 相反する感情が幽谷の中でぶつかり合い、幽谷を混乱させる。

 彼女と視線を交わらせていると、不可思議な感覚に陥ってしまう。
 まるで彼女と自分が同化していくような、幽谷という人格が彼女に飲み込まれていくような、とても心地よい感覚だった。ともすれば、委ねてしまいそうになる。


 彼女の中に還る。


 それが至極当然のことのように思えて――――。


「四凶?」

「――――っ」


 何かに思考を引き戻されたような感覚がした。
 直後、幽谷の身体はその場に崩れ落ちる。

 そこでえっとなった。
 幽谷が倒れたのは池から二歩程離れた場所。
 動いていたのだ。階段から、池の畔へと。
 動いていたつもりなど無かったというのに、自分の意思に反してこの身体は池に、あの女性に向かって歩いていたのだった。


 戻ろうと、還ろう、と――――。


「……何、なの……」


 第三者の声が無ければ真実呑み込まれていた。
 ぞっとしつつ、駆け寄ってきたらしい相手を見上げた。

 夏侯淵だ。
 怪訝そうに幽谷を見下ろしている。
 幽谷は彼に謝罪をし、ふらりと立ち上がった。
 けれど眩暈がしてまた崩れたところを受け止められた。


「おい、どうしたんだ」

「……いえ、少々、意識が飛びかけてしまって……。申し訳ありません」


 先程のことからか、酷く弱っているからか。夏侯淵は戦の時と比べると幽谷に対して接し方が少しばかり軟化している。四凶に対する軽蔑よりも、困惑した風情で離れた幽谷を見つめていた。

 幽谷は近くの欄干に寄りかかって数度かぶりを振った。まだ少し頭がぐらつく。平衡感覚に不安もある。暫くはまともに歩けないだろう。


「……先程、私は何をしていたのでしょうか」


 確認したくて訊ねてみる。
 夏侯淵は途端に怪訝そうな顔をした。


「手を前に伸ばして真っ直ぐ池に歩いて行っていた。端から見れば気持ちが悪いぞ」

「……そう、ですか。それは、申し訳ございません」


 あの女性のことは見えていなかったのか。
 そのことが確かめられてほんの少しだけ安堵した。

 だが、夏侯淵の言うように、何も無い池に向かって手を伸ばし歩いていたとは、とても不気味だ。
 見られたのが夏侯淵だけで済んで良かった。これが兵士で、曹操に報告でもされたら敵わな――――。

 いや、夏侯淵も報告するか。


「すみません、これは、原因が分かるまで内密にしていただけますか」

「は?」

「問われても、原因が分からない以上説明のしようがありませんから。それに、今余計なことで城の中を乱したくはございません」


 夏侯淵は目を細めた。

 ……恐らく、変な風に勘ぐられたと思う。


「……馬鹿か! 何でオレが四凶の言うことを聞かなければいけないんだ」


 ああ、もう。
 誤解を解く気力も無いのに……。
 こめかみを押さえて辟易していると、


「何をしている」

「あ、兄者……!」

「……」


 廊下から、夏侯惇がこちらを冷たく見下ろしていた。



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