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関羽は曹操に強引に連れて行かれてしまった。
残された幽谷は兵士達の流れに従って歩きながら、恒浪牙の姿を捜す。
関羽と曹操が戻ってより暫く経っているが、恒浪牙は未だに姿を見せない。犀煉も、周囲を偵察すると犀華に言って、まだ戻ってこない。
行軍の間に戻ってくるつもりなのだろうか。
恒浪牙に、意識が替わったことや、曹操について相談したいのだけれど……。
立ち止まって後方を振り返った幽谷は、しかし別の人物を見つけて瞠目した。
彼は――――夏侯惇は幽谷が気付く以前に、こちらに用があったらしく、真っ直ぐに歩み寄ってきた。
夏侯淵の姿は無い。戦場でも行動を共にはしていなかったから、まだ合流していないのかもしれない。
「幽谷!」
「……ええ、と……」
戦場で最初に会った時にも思ったが、彼は、躊躇いも無く自然に幽谷を呼んでいる。幽谷を四凶四凶と蔑んでいた彼が、一体どんな心境の変化があったのか。
反応に困って首を傾けると、夏侯惇は周囲を見渡した。誰かを捜しているようだ。
「夏侯淵殿ならば私は知りませんが」
「……いや。夏侯淵には先程会った」
「では、曹操殿ですか? それならば先程関羽様と本陣の方へ行かれました」
「……いや、」
では、誰を捜しているというのか。
眉根を寄せると、彼は腕組みして悩む。まるで、自分でも誰を捜しているのか分かっていないようではないか。
怪訝に彼を呼んだ。
「夏侯惇殿?」
「……やはり何でもない。曹操様は先に本陣に行かれたのか。怪我などは?」
「いいえ、見受けられませんでした」
「そうか……。俺は先に戻る。ではな」
……結局誰を捜していたのか。
曖昧なままに夏侯惇は駆け出した。
本陣の方へ向かっていくその姿を見つめ、ぽつりと。
「……何故名前を呼んだのか訊けば良かったかしら」
「何がです?」
突如背後で声。
慌ててその場から飛び退けば、そこには驚いた恒浪牙。
あっと声を漏らして苦笑し、謝罪した。
「すみません。驚かせてしまいましたねぇ」
「……泉沈はどうだったのです」
「逃げられてしまいました。ですが関羽さんに色々吹き込んだのは間違い無いようですね。関羽さんに会いましたか?」
一瞬だけ動きを止めて首肯する。
反応が分かってしまったのか、恒浪牙は渋面を作った。
「……意識に、何か変な感じなどはしませんか?」
「先程、犀華殿に戻りました。その後に犀華殿の方に異変を感じたと思うと、私がまた表に。……何かに、強引に引き上げられたと言いましょうか」
「……そうですか」
恒浪牙は顎に手を添えて思案する。
けれどもすぐに止めて幽谷に笑いかけた。
「取り敢えず戻りましょう」
「……分かりました」
頷いた幽谷は、本陣の方を見やって目を細めた。
公孫賛のことで、関羽は泉沈の言葉を信じかけているだろう。あの時幽谷が理由を話していたとしたら……止めよう。詮無いことだ。
歩き出した恒浪牙に従い、幽谷も歩き出す。
『返せ』
「……?」
耳元で、今誰か囁いたような――――。
「どうかなさいましたか?」
「あ、いえ……何でもありません」
……どうしてだろうか。
今の声、何処かで聞いたような覚えがあるような……。
「気の所為ね、きっと」
‡‡‡
それからは慌ただしいものだった。
膠着状態に陥った戦場に、曹操は一旦国に戻ることを決め、速やかに撤退した。
幽谷も関羽の側に従おうとした。
が、関羽は『考えたいことがある』と言ってこれを拒絶する。
主に必要無いと言われてしまえば、幽谷も食い下がることは出来ない。やむなく恒浪牙と殿(しんがり)を勤めた。
関羽は遙か先、軍の先頭にいる。
曹操も一緒だ。
ここからではその姿を見ることは出来ない。
自分に疑いを持ち始めた彼女の目を思い出すだけで胸が痛んだ。
関羽の父親について黙っていたことを悪いとは思っていない。そうしなければ、関羽は人間の都合に振り回されることになっていた。父を知らぬよりも、辛い思いをするのは目に見えている。
けれども……こうなることは、望んではいなかった。
このまま関羽が遠退くのではなかろうか。
……曹操は、きっと混血だ。
見えたのは一瞬だけ。だが確かに彼には人間にある筈の耳殻が無かった。
関羽と同じ、混血。
曹操が関羽に執着するのも、恐らくは何処かでそれを知ったからに違い無い。誰が教えたのかは分からないが。
関羽も、もしそれを知れば曹操に親近感を抱くだろう。
彼女が、幽谷から離れて行ってしまう。
忠義の捧げる人物が、その忠義を拒絶する。
曹操に言われるままに、幽谷を排他したら、その時は――――。
どくり、と心臓が大きく波打った。
恐ろしい。
足を止めて自分の身体を抱き締める。
「幽谷殿?」
「……っい、え」
関羽に棄てられることに、彼女は心の底から恐怖した。
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