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「犀華!!」
鋭い声に思わず足を止めると、後ろから肩を掴まれて反転させられた。
直後に焦ったような兄の顔が視界に入り、全身が凍り付くような感覚に襲われた。
犀煉の顔は赤かった。
顔だけじゃない。
よくよく見れば夜のような暗い色合いの衣にも血が染み込み、堅く乾いている。
犀華は犀煉の肩を掴んで逆に詰め寄った。
「兄様、もしかして怪我をなされたのですか!? でしたら、何処を――――」
「俺は傷は負っていない。それよりも、何故お前がここにいる。お前は恒浪牙と共に城に残っていただろう。……まさか武官共に駆り出されたか」
眼差しが鋭利になり、犀華は慌てて首を左右に振った。
「いいえ、これはあたしの意思です。……と言っても、本来は幽谷が最後まで出ている筈だったのですけど……」
掻い摘んで事の次第を伝えると、犀煉は長々と嘆息した。
勝手なことをするなと、怒られてしまった。
犀華はしゅんと肩を落として謝罪した。
「何故昼に幽谷が出られた?」
「あたしから恒浪牙様にお願いしたんです。関羽が一人で行こうとしていたから、幽谷も行った方が良いと」
途端、舌打ち。
彼は犀華が関羽と接触するのを極端に嫌がる。理由は分からないが、それは自分にとってあまり良くないことらしい。具体的には分からないので、従ってはいない。
犀華の頭を少々乱暴に撫でた彼は、ふと身を翻した。
「お前は関羽達と共に兌州に帰れ。俺はこの周辺の様子を偵察してから戻る。どうせ、恒浪牙も来ているのだろう。恒浪牙の側を、絶対に離れるな」
突き放すように犀煉の声音は冷たかった。
今の犀煉は、機嫌が悪い。
犀華が独断で幽谷に代わり、戦場に出てきたことにも怒っているだろうが、他にもあるようだ。偵察をして戻るというのも、それが原因やも……。
犀華はもう一度兄に謝罪し、くるりときびすを返した。駆け出して先に戻ってしまった関羽の後を追いかける。
それを見届け、犀煉も衣を翻し姿を消した。
‡‡‡
身体に異変が起こったのは、犀煉から離れてややあってからだ。
不意に後頭部を鈍器で殴られたような重い衝撃に襲われたかと思うと、足の感覚が無くなってその場に倒れてしまった。手で上体を起こすも、腕からも力が抜けてしまう。
何が起こったのか理解出来ぬ間に、脳を直接鷲掴みにされた。頭蓋から引っ張り出そうとするかのような不可解な引力に吐き気もこみ上げてくる。
何よ、これ……。
歯軋りしようにも思うように力が入らな――――。
『返せ』
……不意に、声がした。
微かなそれは女性のものだ。
けども、幽谷のものとも、犀華のものとも違う。
では、誰の声だ?
『返せ』
『返せ』
『妾に返せ』
『汝(な)れらは、』
『無に還(かえ)れ』
『この器は妾の為に用意された物』
……違う。
心の中で反発する。
奇異な話だ。
意識すら持っていきそうなものなのに、思考はままならないどころか、しっかりとしている。
この声が何を求めているのかも、分かってしまう。
けれど。
『返せ』
『妾の器』
『我が使命を』
『天帝よりの尊(たっと)き命を』
違う。
これはあたしの身体じゃないか。
あなた誰?
この身体はあたしの身体。
幽谷は許したけれど、あなたは許さない。
許さない。
消えて。
消えて。
……消えろ!!
『ままならぬか……ええい、……わず……しい!』
声が段々と掠れていく。
一瞬だけ、何かが思考に入り込んできたものに意識は冴え渡った。
そうして――――彼女は理解する。
この身体、幽谷と犀華の《総(すべ)て》を。
嗚呼、そういうことだったのか。
そういうことだったのだ。
だから幽谷は犀華の中に在るのだ。
幽谷は作られてはいけない意識であった。
創造主の予定に無かった意識の誕生は《変幻》と言う特性によって急激に作り上げられたものだった。
幽谷が生まれなければ、もっと早くこの器は完成する筈だった。
最初の歪みは犀煉。
それを大きくしたのは猫族――――関羽。
今や人と同じ感情を抱く幽谷は、彼女にとっては表に出ることを阻む分厚い壁だった。
そして犀華は、自分は……有り得ないのだ。
目覚めたこの自我(あたし)は、《犀華》ではない。
この肉体に残された《犀華》の残滓(ざんし)に過ぎなかったのだ。
本物の犀華は、もういない。
間違いだったのは、《あたしたち》……だったのか――――。
でも、この身体は譲れない。
あなたには渡せない。
……絶対に。
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