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 切り札は二つ。
 効果があるのは、《こっち》。

 泉沈は目の前に立つ猫族の娘を見、にたりと口角をつり上げた。



‡‡‡




 元々、幽谷と恒浪牙が夏侯惇の危機に駆けつけたのは偶然だった。
 関羽に先んじて戦場の様子を見るつもりであった二人は、夏侯惇から戦況を詳しく聞くと、即座に身を翻した。

 そろそろ関羽も戦場に着いている頃だろうと、夏侯惇に武運を祈り己らが来た方向へ直走(ひたはし)る。
 まだ、曹操に関羽と幽谷の存在を知らせる訳にはいかなかった。関羽が戦場に来たとなれば、何よりもまず関羽を連れ戻そうとするだろう。猫族と接触する前に。

 曹操に会う前に、関羽の目的を果たさなければ。
 そして、曹操に殲滅される前に、猫族を守らなければ。

 しかし。


「関羽様!」


 馬を下りて一つの遺体と向き合っていた関羽は、幽谷の声にはっと顔を上げた。一瞬だけ、目を逸らされたような気がする。

 彼女の様子を訝って近付くと、関羽は即座に馬に乗って「急ぎましょう!」と走らせた。

 今まで彼女のいた場所には青年の遺体が。
 驚愕に歪められてはいるものの、その秀麗なかんばせには見覚えがある。袁紹軍の二虎将軍、顔良だ。以前、ほんの少しではあるけれど言葉を交わしたことがある。
 関羽が手に掛けたとするならば、この知らせは間も無く曹操にも至ろう。

 ……こうしてはいられない。

 慌てて追おうとすると、恒浪牙が幽谷を呼んだ。
 先程までの情けない表情は消え、真摯な顔をして周囲を見渡している。


「何か?」

「……泉沈が、先程までここにいたようです。関羽さんに何か吹き込んだのかもしれませんね」


 泉沈が……。
 ということは、この戦場に彼もいるということ?
 恒浪牙は自ら泉沈に接触して問い質すと告げ駆け出した。ついでに、犀煉の様子も見てくると。

 幽谷が了承する暇も無く、彼女は黙って彼を一瞥し、すぐに関羽の後を追いかけた。


 顔良の遺体には、もう目もくれなかった。



‡‡‡




 関羽に追い付くと、彼女は馬を走らせながら幽谷を呼んだ。
 けれども、何かを問おうとしては躊躇って口を閉じてしまった。
 恒浪牙の言う通り、泉沈が何かを言ったのだろう。

 問い質そうとした幽谷はしかし、前方に見慣れた後ろ姿を見つけて止めた。そして、関羽を呼んだ。

 彼女も気まずそうな表情を一変、驚愕し、馬を速めた。
 幽谷はそれに従い速度をぐんと上げる。

 彼――――夏侯淵は誰かとの会話に集中しているようだった。怒号が聞こえてくる。


「あっぶねーな! オメー今、本気で斬りかかったろ!」

「当たり前だ! 十三支なんぞぶった切ってやる」


 十三支!
 その単語に二人は大きく反応した。


「オレらは姉貴と幽谷を探してーだけなんだよ! つーか、オメーちょっと姉貴達連れてこいよ」

「何でオレが貴様に命令されたんだ! ふざけやがって!」

「まぁまぁ」

「何だそれは! 貴様、戦を舐めてるのか!」


 ……途中聞こえたその声に、速度が弛んだ。
 が、慌てて速度を上げる。


「張飛! 趙雲!!」

「あ、姉貴ぃ!! 幽谷も!!」


 張飛達の数歩手前で馬から下りた関羽が駆け寄るのに従う。

――――が、それが間違いだったと後悔する。

 夏侯淵の驚いたような表情を見た直後、目の前に真っ暗になった。
 ……突然現れたと言うのではない。幽谷自身の感覚が鈍っている所為で、《彼》の動きに気付けなかったのだ。
 腕に身体をキツく締め付けられ、幽谷は匕首を握る。嫌悪で全身がぞわぞわした。
 その上、意識が遠退くような感覚に冷や汗を掻く。これは少々、危ういかもしれない。……洒落にもならない。

 幽谷の殺意に気付いた張飛が慌てて彼を引き剥がした。


「ちょい待ち! 趙雲! 死ぬぞ!!」

「……ああ、すまない。幽谷の無事な姿を見たら身体が勝手に……」

「いっそ死んで下さい」

「「幽谷!!」」


 振りかぶった匕首持つ腕を関羽が掴んで止めた。

 その時だ。身体が揺れ、彼女の手から匕首が落ちた。
 途端に訪れた、ぐらりと脳が揺さぶられるような感覚に吐き気がする。

 前のめりに傾いだ身体は趙雲が慌てて抱き留めた。

 離れたいとは思うけれど、意識が急激に遠退き、視界が真っ暗に変わってしまう。
 手すら思うように動かせなかった。


『……あんた、馬鹿でしょ』


 呆れ果てた犀華の声が、遠い彼方から聞こえたような……気がした。



‡‡‡




「幽谷……?」


 その場に膝をついて動きもしない幽谷に、趙雲が訝しげに名前を呼ぶ。
 意識を失ってしまったのかと身体を仰向けにして顔を覗き込んだ。

 堅く閉じられた瞼に思わず関羽を見上げると、関羽は幽谷の様子に眉根を寄せて「まさか」と呟く。


「関羽?」

「……犀華?」


 聞き慣れない人名で、幽谷を怖々と呼ぶ。

 すると、びくりと身体が震え、彼女は呻いたのだ。
 もぞりと身動ぎして、うっすらと目を開ける。

 その色違いの双眸が趙雲の顔を捉えたその刹那である。


「っいやあぁぁぁ!!」

「っ!?」


 《女性らしい》悲鳴を上げた彼女は趙雲を押し飛ばして関羽の背後に隠れた。
 ほんのりと顔を赤らめて、警戒するように趙雲を睨んでくる。

 ……これは、幽谷とは違う、まるで普通の娘のようではないか。
 これには趙雲も張飛も呆気に取られるしか無かった。
 ほんの少しの間に彼女の中で何があったと言うのか?


「何なの今の体勢!! っていうか、近いでしょ!?」

「何なのって……そっちが何なんだよ!?」


 張飛が犀華をまじまじと見つめる。どういうことなのか、事情を知っているらしい関羽に説明を求めた。
 しかし、関羽にはどう言えば良いのか分からない。彼女がどうして幽谷に中に存在しているのか、詳しくは知らないのだ。

 口をヘの字に曲げて考え込んでいると、趙雲が不意に、


「幽谷……とは違うようだな」

「え、ええと……彼女は犀華って言うの。訳あって、呂布と戦った時から彼女の意識が出てきていて……」


 助けを求めて犀華を振り返ると、彼女は趙雲と張飛を交互に見て、やおら嘆息した。


「……そこはかくかくしかじかよ」

「そんな投げやりな……」

「この状況で詳しく話してらんないでしょ? それに、恒浪牙様に詳しく話してはいけないって言われているし。っていうか、何であたしが出てきてるの。これじゃ恒浪牙様に術をかけてもらった意味が無いじゃない」

「そ、それは……」


 関羽にも分からないことだ。
 一応経緯だけでも教えると、彼女は考え込み、趙雲を見やる。
 何か、納得した風情で頷いて小声で関羽に問いかけた。


「もしかしなくても、幽谷ってあの人のこと嫌ってるでしょ」

「嫌っていると言うか……苦手かしら」


 趙雲の為にそう言ってみたが、鼻で一笑された。


「苦手であたしに変わるくらいになる? 起きる直前、かなりの嫌悪感あったわよ。あたしには覚えが無いから十中八九幽谷のものね」

「……」


 ……幽谷。
 心の中で、彼女にそっと呼びかけた。



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