30
切り札は二つ。
効果があるのは、《こっち》。
泉沈は目の前に立つ猫族の娘を見、にたりと口角をつり上げた。
‡‡‡
元々、幽谷と恒浪牙が夏侯惇の危機に駆けつけたのは偶然だった。
関羽に先んじて戦場の様子を見るつもりであった二人は、夏侯惇から戦況を詳しく聞くと、即座に身を翻した。
そろそろ関羽も戦場に着いている頃だろうと、夏侯惇に武運を祈り己らが来た方向へ直走(ひたはし)る。
まだ、曹操に関羽と幽谷の存在を知らせる訳にはいかなかった。関羽が戦場に来たとなれば、何よりもまず関羽を連れ戻そうとするだろう。猫族と接触する前に。
曹操に会う前に、関羽の目的を果たさなければ。
そして、曹操に殲滅される前に、猫族を守らなければ。
しかし。
「関羽様!」
馬を下りて一つの遺体と向き合っていた関羽は、幽谷の声にはっと顔を上げた。一瞬だけ、目を逸らされたような気がする。
彼女の様子を訝って近付くと、関羽は即座に馬に乗って「急ぎましょう!」と走らせた。
今まで彼女のいた場所には青年の遺体が。
驚愕に歪められてはいるものの、その秀麗なかんばせには見覚えがある。袁紹軍の二虎将軍、顔良だ。以前、ほんの少しではあるけれど言葉を交わしたことがある。
関羽が手に掛けたとするならば、この知らせは間も無く曹操にも至ろう。
……こうしてはいられない。
慌てて追おうとすると、恒浪牙が幽谷を呼んだ。
先程までの情けない表情は消え、真摯な顔をして周囲を見渡している。
「何か?」
「……泉沈が、先程までここにいたようです。関羽さんに何か吹き込んだのかもしれませんね」
泉沈が……。
ということは、この戦場に彼もいるということ?
恒浪牙は自ら泉沈に接触して問い質すと告げ駆け出した。ついでに、犀煉の様子も見てくると。
幽谷が了承する暇も無く、彼女は黙って彼を一瞥し、すぐに関羽の後を追いかけた。
顔良の遺体には、もう目もくれなかった。
‡‡‡
関羽に追い付くと、彼女は馬を走らせながら幽谷を呼んだ。
けれども、何かを問おうとしては躊躇って口を閉じてしまった。
恒浪牙の言う通り、泉沈が何かを言ったのだろう。
問い質そうとした幽谷はしかし、前方に見慣れた後ろ姿を見つけて止めた。そして、関羽を呼んだ。
彼女も気まずそうな表情を一変、驚愕し、馬を速めた。
幽谷はそれに従い速度をぐんと上げる。
彼――――夏侯淵は誰かとの会話に集中しているようだった。怒号が聞こえてくる。
「あっぶねーな! オメー今、本気で斬りかかったろ!」
「当たり前だ! 十三支なんぞぶった切ってやる」
十三支!
その単語に二人は大きく反応した。
「オレらは姉貴と幽谷を探してーだけなんだよ! つーか、オメーちょっと姉貴達連れてこいよ」
「何でオレが貴様に命令されたんだ! ふざけやがって!」
「まぁまぁ」
「何だそれは! 貴様、戦を舐めてるのか!」
……途中聞こえたその声に、速度が弛んだ。
が、慌てて速度を上げる。
「張飛! 趙雲!!」
「あ、姉貴ぃ!! 幽谷も!!」
張飛達の数歩手前で馬から下りた関羽が駆け寄るのに従う。
――――が、それが間違いだったと後悔する。
夏侯淵の驚いたような表情を見た直後、目の前に真っ暗になった。
……突然現れたと言うのではない。幽谷自身の感覚が鈍っている所為で、《彼》の動きに気付けなかったのだ。
腕に身体をキツく締め付けられ、幽谷は匕首を握る。嫌悪で全身がぞわぞわした。
その上、意識が遠退くような感覚に冷や汗を掻く。これは少々、危ういかもしれない。……洒落にもならない。
幽谷の殺意に気付いた張飛が慌てて彼を引き剥がした。
「ちょい待ち! 趙雲! 死ぬぞ!!」
「……ああ、すまない。幽谷の無事な姿を見たら身体が勝手に……」
「いっそ死んで下さい」
「「幽谷!!」」
振りかぶった匕首持つ腕を関羽が掴んで止めた。
その時だ。身体が揺れ、彼女の手から匕首が落ちた。
途端に訪れた、ぐらりと脳が揺さぶられるような感覚に吐き気がする。
前のめりに傾いだ身体は趙雲が慌てて抱き留めた。
離れたいとは思うけれど、意識が急激に遠退き、視界が真っ暗に変わってしまう。
手すら思うように動かせなかった。
『……あんた、馬鹿でしょ』
呆れ果てた犀華の声が、遠い彼方から聞こえたような……気がした。
‡‡‡
「幽谷……?」
その場に膝をついて動きもしない幽谷に、趙雲が訝しげに名前を呼ぶ。
意識を失ってしまったのかと身体を仰向けにして顔を覗き込んだ。
堅く閉じられた瞼に思わず関羽を見上げると、関羽は幽谷の様子に眉根を寄せて「まさか」と呟く。
「関羽?」
「……犀華?」
聞き慣れない人名で、幽谷を怖々と呼ぶ。
すると、びくりと身体が震え、彼女は呻いたのだ。
もぞりと身動ぎして、うっすらと目を開ける。
その色違いの双眸が趙雲の顔を捉えたその刹那である。
「っいやあぁぁぁ!!」
「っ!?」
《女性らしい》悲鳴を上げた彼女は趙雲を押し飛ばして関羽の背後に隠れた。
ほんのりと顔を赤らめて、警戒するように趙雲を睨んでくる。
……これは、幽谷とは違う、まるで普通の娘のようではないか。
これには趙雲も張飛も呆気に取られるしか無かった。
ほんの少しの間に彼女の中で何があったと言うのか?
「何なの今の体勢!! っていうか、近いでしょ!?」
「何なのって……そっちが何なんだよ!?」
張飛が犀華をまじまじと見つめる。どういうことなのか、事情を知っているらしい関羽に説明を求めた。
しかし、関羽にはどう言えば良いのか分からない。彼女がどうして幽谷に中に存在しているのか、詳しくは知らないのだ。
口をヘの字に曲げて考え込んでいると、趙雲が不意に、
「幽谷……とは違うようだな」
「え、ええと……彼女は犀華って言うの。訳あって、呂布と戦った時から彼女の意識が出てきていて……」
助けを求めて犀華を振り返ると、彼女は趙雲と張飛を交互に見て、やおら嘆息した。
「……そこはかくかくしかじかよ」
「そんな投げやりな……」
「この状況で詳しく話してらんないでしょ? それに、恒浪牙様に詳しく話してはいけないって言われているし。っていうか、何であたしが出てきてるの。これじゃ恒浪牙様に術をかけてもらった意味が無いじゃない」
「そ、それは……」
関羽にも分からないことだ。
一応経緯だけでも教えると、彼女は考え込み、趙雲を見やる。
何か、納得した風情で頷いて小声で関羽に問いかけた。
「もしかしなくても、幽谷ってあの人のこと嫌ってるでしょ」
「嫌っていると言うか……苦手かしら」
趙雲の為にそう言ってみたが、鼻で一笑された。
「苦手であたしに変わるくらいになる? 起きる直前、かなりの嫌悪感あったわよ。あたしには覚えが無いから十中八九幽谷のものね」
「……」
……幽谷。
心の中で、彼女にそっと呼びかけた。
.
- 201 -
[*前] | [次#]
ページ:201/294
しおり
←