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 目の前には筋肉隆々とした巨躯。
 その岩を彷彿とさせる猛将から発せられる闘気は、対峙する者を威圧し、押し潰す。

 彼に戦意を挫かれ命までも粉砕された者達が周りに横たわる。

 つい先程までは配下だった彼らの亡骸を一瞥し、夏侯惇は舌を打った。

――――袁術が配下、紀霊。
 隻眼でなければ、体格差があるとて手間取ることなど無かったというのに!
 歯噛みし、斬りかかる。

 されど、強大な得物を振るわれ、剣の軌道を逸らす前に弾かれる。
 強烈な反動に手が痺れた。
 数歩後退して紀霊を睨めば、彼は低い笑声を漏らす。

 紀霊という男は、獰猛な獣そのものだった。
 知性も無くただただ武を振るう。
 彼の怪力は確かに厄介だ。だが頭を使った戦い方を不得手としている為に、彼の攻撃は避けやすく読みやすい。
 けれども未だに不慣れな視界があらゆる反応を邪魔してしまうのだ。

 紀霊の動きを注視するも、ままに見逃してしまう。
 慣れていないと、分かっていた。
 だが、まさかこれ程だとは!


「我亜亜亜亜!!」


 紀霊が鈍く光を反射する鎚を振りかざす。
 刹那である。

 夏侯惇の前に人影が飛び込んだ!

 それは長柄の武器で鎚を受け止めると、そのまま押し返した。あの、怪力の殴打を。
 ゆったりとした身形のその影はゆっくりと夏侯惇を振り返った。

 細い目が、笑っている。


「いやぁ……間一髪、でしたねえ」


 「間に合って良かったですよー」戦場にそぐわぬ暢気な声音。
 あの地仙の薬売りに他ならない。

 彼が、今、紀霊の渾身の一撃を容易く弾き返したというのだろうか。
 ……信じられない。


「邪魔、排除、滅……滅、滅!!」

「おっと。今はお話しをしているので、少々お待ち下さいね」


 今度は素手で止めた。
 袖が落ちて筋肉もさほど付いているとは思えない腕が露わになる。
 恒浪牙は夏侯惇に笑いかけ、鎚を押した。

 すると、紀霊がよろめいたではないか!

 唖然とするしかない。


「ああ……明日はきっと筋肉痛だろうか。老いぼれに無理をさせないで欲しいのだけれど」


 老体を嘆くが、とてもそうは思えない。姿も、力も。


「お前は一体……」

「その辺に転がってる地仙の薬売りですよ」

「地仙はその辺の石と同じ存在という訳ですか」


 違う声が介入した。
 凛とした、抑揚の無い女性の声色だ。
 夏侯惇がはっと背後を振り返った瞬間、真上を飛び越えた人影。

 それは真っ直ぐに紀霊へと向かった。
 そして、右手を左から右へ薙ぐ――――。

 雄叫びと共に鮮血が空中を舞った。

 どうと地面に倒れる巨躯の前には、華奢な女性が直立している。彼女の手にした匕首からは、血が滴り落ちていた。


「おや、殺さなかったのですか」


 彼女は、ゆっくりと恒浪牙を振り返った。
 感情の見えない色違いの双眸に、夏侯惇は息を呑む。


「幽谷……」


 直後、彼女の身体が僅かに跳ねたように見えた。
 幽谷は無表情に夏侯惇に拱手してみせると、恒浪牙の問いに答えた。


「……殺せば、私が殺したと周囲に広がってしまいましょう。まだ、曹操殿の耳に入る訳には――――」


 と、そこで彼女は額を押さえて前のめりによろめいた。

 恒浪牙が、受け止めた。

 ……ざわ。


「おっと。大丈夫ですか」

「ええ……少し目眩がした程度ですから」


 恒浪牙の袖をしっかりと握り締めながら、体勢を正す。

 夏侯惇は顔をしかめた。
 何故か……何故か、この様が気に食わない。
 どうしてか、苛々する。

 人と、地仙や四凶の差を改めて見せつけられたからだろうか。
 常人では辿り着けない領域をまざまざと見せつけられたからだろうか。


「無理矢理犀華殿と意識を変えてしまったのですから、まだ暫くは目眩が続きましょう。ですが一応は安定しておりますので、終わるまでは意識が戻る、と言うことは無いでしょう」

「……四凶」

「……?」


 幽谷が、夏侯惇を捉える。恒浪牙から離れて、前に立った。
 一瞬だけ、胸にわだかまるものが軽くなったような気がした。だがすぐに、戻ってきてしまう。


「どういうことだ? お前は夜にしか出てこれなかった筈では?」


 知らず、語気を強めてしまった。劣等感と、自分が思うよりも気が高ぶっているのかもしれない。

 すると幽谷はつかの間少しだけ――――ほんの少しだけ悲しそうな顔をする。……自分の勝手な勘違いだろうが。


「犀華殿が彼に私を出すように願い出たのです。術で強引に出てきたのですが、やはり少々無理があるようで、夜のように上手くは動けず」


 謝罪と共に頭を下げられた。
 だが、別に謝る必要など――――。


「夏侯惇将軍。そんな怒った顔をしてはいけませんよ」

「は?」

「ほらほら、眉間の皺がいつもより凄いことになっていらっしゃる」


 困ったように笑いながら、恒浪牙は己の眉間を指差す。

 触れてみるがいつもより酷いのか分からない。
 怪訝に顔を歪めると彼は幽谷を退がらせて夏侯惇にそっと耳打ちした。


「彼女は砂嵐ではないのですから、嫉妬は筋違いというものではありませんか」


 幽谷を彼女と一緒にするのは良くないですよ。
 そう言って離れた彼の目は、笑っていなかった。まるで、幽谷にそんな感情を向けるなと言わんばかりに、氷のように冷め切っていて。

 恒浪牙の発言に動揺するよりも何よりも、その冷たさに夏侯惇は息を呑んだ。



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