26
城が慌ただしいのは今では常のことだ。
恒浪牙は一人ゆったりと歩きながら、忙しそうに行き交う兵士や武官達を眺めていた。
犀煉や曹操が戦場に赴く程に、事態はよろしくないようだ。まあ、大軍の中に猫族がいるのならばそれも必至か。
犀煉は、真面目には働いてはくれないんだろうなあ……。
心の中でぼやいて、後頭部を掻く。
手を抜いて、夏侯惇達と要らぬ衝突を起こす彼の姿が目に浮かぶ。
自分も行くべきだったかな。
泉沈への警戒も含め、犀華の様子を診る為に残っているけれど、犀煉のことも少々心配になってくる。
胃を痛めてしまわないかと顎を撫でていると、前方の部屋から関羽が現れた。
「……と、おや。関羽さん」
「あ……あなたは、」
思い詰めていた関羽は恒浪牙に気が付くと、小走りに近寄ってきた。
その後ろには、兵士が付いている。
「……監視ですか」
目を細めて兵士を見据えると、彼は気まずそうに視線を床に落とした。
曹操のすることには呆れるばかりだ。
猫族に束縛は毒であるとつい最近言ったばかりじゃないか。
それで風邪を引いてしまったようなものなのに、彼は何も見えていないらしい。
「ええ……曹操が」
「……では、ここからは私がお供致しましょう。あなたもそれでよろしいでしょう」
視線を下げてた兵士は慌てて顔を上げた。
「いいえ。そうは参りません。曹操様の命令ですので」
「そうですか……ならば、仕方がありませんね」
関羽の肩を掴んでそっと退かせ、恒浪牙は兵士の前に立った。
そして優しげな微笑を湛えて、彼の眉間に指を当てた。
「あ――――」
「関羽さんの部屋の前で待っていなさい。私が、お送り致しますから」
兵士はこくりと頷いた。目に光が無い。
ふらりと危うげな足取りで歩き出した兵士に、関羽は恒浪牙の袖を掴んで何事なのか問うた。
それを、恒浪牙はやんわりとかわして歩き出す。
「さて、何処に行かれるつもりだったのです?」
「……誰かに、戦況を聞きたいんです」
「そうですか。なら、今武官達が顔を合わせて話をしていますし、そちらに参りましょうか。……ああ、ですが、その前に犀華殿も連れて参りましょう。散歩がてらに」
「は、はあ……」
関羽は妙なものを見るかのように、怪訝そうに恒浪牙を見上げた。
彼女にしてみればこの状況下でこんなにもおっとりとした恒浪牙が不思議なのだろう。誰もが胸をざわめかせるこの城内では、恒浪牙が一番落ち着いていた。
恒浪牙は関羽に笑いかけ、
「所詮は、人の子のつまらぬ諍(いさか)いですからね」
「つ、つまらないなんて……人が沢山死んでいるのに」
「だからこそ、つまらないのですよ。戦は命が失われるばかりで何も生まないことを、長い時間を生きてきた私は知っていますから。しかし人の子はそれを理解出来ない。悲しいことですね」
穏やかな笑みを浮かべたままに、彼は声を低くする。
関羽は暫く恒浪牙を見上げていたが、ふと問いを投げた。
「あなたはどうして、幽谷や犀煉のことを気にかけるんですか?」
「……これはまた、唐突な質問ですね。その質問に、あなたは関係無いでしょう」
恒浪牙は前を見据えて関羽に視線を寄越さない。しかしきっぱりと、彼女の問いを拒んだ。
関羽は穏やかながらに冷たい恒浪牙の言葉に、しゅんと肩を落として視線を床に向けた。
「それは、そう、ですけど……」
「あなたは、今は自分のことだけ考えていなさい。今、曹操殿はあなたの行動如何(いかん)によってどんな方向にも傾くでしょう。そしてそのまま幽谷や犀華殿へ行ってしまう」
「え? どういうことですか?」
「そういうことです。ああ。これは曹操殿には秘密にしておいて下さいね。先日《悪化》したばかりなので」
「悪化……?」
恒浪牙は、何を言おうとしているのか、関羽は分からずに不安を胸中で膨らませた。
彼が遠回しに何かを関羽に伝えようとしているのかもしれない。でなければこんな含みのある言い方なんてしない。
けれど、それは何?
何か不穏なモノを感じるけれど――――まさか?
ふと関羽の脳裏に浮かんだのは、ただの憶測だ。多分城内の重い雰囲気に乗じて浮かんだ何の根拠も無いもの。
まさか、幽谷や犀華に曹操が何かをしているなんて、そんなことある訳ないわよね。
心の中で、否定する。
だって曹操は、わたしと幽谷が親友だって、分かっていると思うもの。
最近の曹操はおかしい。でも、幽谷を害するようなことは絶対にしない――――と。
そう思いたかった。
「あなたは自由でこそ美しい。大勢の方々に愛されて育った。ですが、それ故に曹操殿は焦れてしまうのでしょう。曹操殿にしてみれば、あなたはともすれば何処にでも飛んでいってしまう鳥のような存在だ。そして、あまりにも《大切なもの》が多すぎる。勿論、それは決して悪いことではない。けれども、今はそれが軋轢(あつれき)となって災いを呼んでしまっているのかもしれません」
……止めて。
徐々に徐々に、むくむくと形が出来上がっていく。
そんな風に言われたら、《まさか》が大きくなってしまうじゃないか。
そんなことある筈がないのに。
《まさか》が捨てきれないじゃないか。
「あの、恒浪牙さん……」
「ああ、失礼。今、犀華殿を呼んで参りますね」
恒浪牙は関羽の言葉に応えずに、前方に見えてきた犀華の部屋へと大股に向かっていった。
不安は、膨れ上がるばかりだ。
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