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犀華の意識下では、この身体は水をかけても傷を癒せない。完全に人間の身体だった。
それでも治そうと思えば、夜に治せる。幽谷である時に池の水をかければ良いのだから。
されど、恒浪牙はそれを止める。
少しでも幽谷の意識が出てくることを、曹操に臭わせてはならない。食事がもっと《苛烈に》なるだけだ。今はもう恒浪牙の食事と気付かれないように取り替えているのだが――――恒浪牙は死なない身体なので、毒の類も少々苦しいだけで平気なのだそうだ――――これも気付かれるのは時間の問題だ。
幽谷の気配は、絶対に曹操に嗅ぎ付けさせてはならないのだ。
その為には、もう中庭へ訪れるのは止めろと、恒浪牙に言われてしまった。恒浪牙は、夜の幽谷の行動を知っていたのだ。犀煉は知らないでいるようだが、それも彼が気を配ってくれていたからのようだ。『幻術を使うのも、結構気を遣うんですよ〜』と疲れた老人のような顔をされてしまった。
幽谷は犀華が怪我をしてからずっと、夜は部屋に閉じこもってばかりだった。
夏侯惇から受け取った薬は、まだ手をつけていない。……何となく、使ってしまいたくないのだ。
墨を塗りたくったような部屋の中、幽谷は寝台に腰掛けたまま、脇腹を押さえた。
身動げば痛いが、この程度ならまだ平気だ。
犀華は度々痛みに呻いて動きを止めるけれども、犀煉の前では必死に怪我を押し隠そうとする。犀煉が曹操に直談判に行っていたことを知っているのだ。
けども彼は知っている。知っていながら、恒浪牙にキツく止められているから曹操に何もしないでいるのだ。実際、犀煉が警告した後に茶だけでなく料理にも含まれ始めた上、毒の濃度は一気に高まった。むしろ悪化させただけだ。
犀煉とて、煽るだけに過ぎないと分かっていただろうに、余程犀華のことが愛おしいのだ。
犀華でぞんざいな扱いを受けていた幽谷へ、ままに温情を与えていたのも犀華を重ねてしまったからなのかも知れない。
《基(もと)》は犀華。
幽谷は後に加えられた要素の一つ。
本来、不要なモノ。
消えるべきは自分だった。
《幽谷》は生まれるべきではなかった。
《幽谷》がいなければ――――まだ、楽だったのかもしれない。
一瞬だけ脳裏に浮かんだ関羽に笑顔に、胸が突かれたような気がした。
あの時――――呂布を殺めたあの時に、幽谷や犀煉達四霊が消えていれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。
それは関羽を守りたいと言う思いの影で、ひっそりと隠れている。
自覚すればする程に心中が泥のようなモノにまみれてぐちゃぐちゃになった。
つくづく、自分という存在が嫌になる。
幽谷は胸を撫でて長々と吐息を漏らした。
すると、ちりちりと心臓の辺りがひりつく。
幽谷はあっと声を漏らし、取り繕うように笑った。
「いいえ、あなたが気遣うべきではないことですから。ご心配をおかけして、すみません」
最近の犀華はやたらと幽谷を気にかける。
感情もある程度は共有してしまうから、ぐちぐちと暗いことばかりを考えてばかりのこちらが気になってしまうのだろう。気にするなと言っても、きっと彼女は気にかける。余計な思考を持たせてしまって、本当に申し訳ないと思う。
幽谷は胸を軽く叩いた。
――――それから、ややあって。
扉が控えめに叩かれた。
『いるか』
「……、夏侯惇殿」
思わず立ち上がって、拳を握る。視線を一瞬だけ床に落とし扉を見据えた。
声を犀華の抑揚にして静かに応えを返す。
「……何よ」
『傷の様子は』
夏侯惇の言葉は短く、声音が堅い。彼も彼で、襤褸(ぼろ)を出さぬようにしているのだろう。
「別に。あんたには関係ないでしょ。さっさと消えて。……でないと、変に勘ぐられても知らないわよ。あたしはあんたがどうなったって責任なんて取らないから」
けんもほろろに言って、幽谷ははあと吐息を漏らした。
……彼は一体何を考えているのか。
今犀華に構えば、曹操から不審を買ってしまうかもしれないのに。
彼は、犀華の苦し紛れの言葉を聞いている。完全に意識の無かった犀華の、曹操に対する憤りがそんな言葉を絞り出させたのだ。
あの時犀華に理性が、下手な嘘をつける程の思考が無いことなど、彼程の人物であれば分からぬということもあるまい。
それなのに、これである。
扉の向こうで沈黙する夏侯惇の気配はまだ感じられる。まだ、そこにいるのだ。
何か思案でもしているのか、早く立ち去って欲しいのに彼は一言も発しないし動こうともしない。
幽谷は己の中に苛立ちとほんの僅かな焦りを感じながら夏侯惇が立ち去るのをじっと待った。
が。
『部屋に入るぞ』
「は? ちょ――――」
がちゃりと扉を開けてさっと入り込んできた彼に慌てた。
「な、何を……」
「……今日は、お前に訊きたいことがある」
真摯な隻眼が、幽谷を射抜いた。
‡‡‡
夏侯惇は問うた。
その傷は、曹操にやられた傷であるのかと。
これ程に揺らぐ彼の隻眼は、幽谷が初めて見る。
彼も彼で曹操の様子の変化に気付いていない筈がない。
恐らくは、……否、確実に彼は犀華の言葉を信じかけていた。
そうでありながら、申し訳程度に残された可能性に縋ろうとしている。そうでなければ、夏侯惇が長年捧げた忠義にヒビが入る。
忠誠を誓って今まで付き従った男が、たった一人の《十三支》女の為に――――彼がそう思い至ったのか、確証は無いけれど――――無力な犀華を害したまでか、長らく目指した覇道をも捨て去ろうとしているのだから。
今までの彼らの働きを呆気無く無かったものにされてしまうのと同じことだ。
曹操が覇道を止め、このまま袁紹の勢いに呑まれたら。
彼もまた、一時瞬いた星でしかなくなる。
後世の史家は、一人の女に覇道を捨てた男のことなどどう評するのであろうか。
夏侯惇の胸中を思えば、ここは嘘をついた方が良いのかもしれない。彼を中心に曹操への不審が広がれば、その果てにあるのは関羽の暗殺だ。要は元凶の関羽がいなければ良いのだから。
けれども。
されども。
「事実です」
幽谷は、緩やかに首肯した。
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