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 覚醒すれば意識は切り替わっていた。

 ああ、夜か。
 幽谷はのっそりと起き上がってまず腹を触った。

 曹操に刺された後、関羽が一旦目覚めたのを確認して部屋を出た。それから兵士に見つかりそうになって隠れて――――暫く廊下を歩いていたのは覚えている。
 けれど犀華は何処かで倒れてしまったらしい。記憶は徐々に曖昧になり、ぷつりと途絶えてしまっていた。

 ……痛みは、無い。
 衣服に刺された形跡は残っているけれど、傷も綺麗に無くなっていた。
 代わりに、肌を覆う物がある。


「……包帯」


 しっかりと巻かれたそれに首を傾けた。

 誰に?

 真っ先に浮かんだのは夏侯惇。
 関羽ではなく、彼だ。
 だがすぐに否定する。

 幽谷の裸を見た時にあそこまで狼狽した夏侯惇が、異性の裸に免疫があるとは思えない。

 取り敢えず部屋の外に出ようかと立ち上がると、不意に扉が開かれた。


「起きたか」

「……夏侯惇殿」


 幽谷は柳眉を顰めた。

 夏侯惇は幽谷を一瞥すると、「座っておけ」と突っ慳貪に言った。

 言われるままに座る。


「傷の具合はどうだ」

「今は痛みません。……これは夏侯惇殿が?」

「いや、あの薬売りを呼んだ」


 夏侯惇は幽谷の前に立って小さな袋を差し出した。何かと問えば痛み止めだと返事。
 彼が作った物らしく、効果は期待するなと付け加えられた。
 確かに、恒浪牙が彼に渡した薬の製法の中には痛み止めもあったように思う。

 ちゃんと作っていたのか、彼は。
 てっきり怪しい人間か教えられた製法などやれるかと捨てているのではと思っていたが。

 意外に思いながら見上げていると、夏侯惇は焦れて幽谷の手に無理矢理持たせて背を向けた。


「歩けるならさっさと戻れ。あの鉄紺の男に言わぬよう、薬売りには言ってあるが、どうなるか分からん」

「分かりました。……犀華殿を助けていただきましたこと、感謝致します」

「助けたかった訳ではない。廊下の真ん中で血を流して倒れられては騒ぎになるからだ。今、城内を要らぬことで乱す訳にはいかない。それだけだ」


 幽谷は無言で夏侯惇に拱手すると、懐から出した札を口に銜える。
 夏侯惇が振り返った時には、彼の視界には幽谷の姿を移らなかった。

 ただ――――扉が独りでに開いた際に身体がびくついた。



‡‡‡




 幽谷が去った後、夏侯惇は寝台に腰を下ろして片手で顔を覆った。
 重苦しい胸に溜息しか出てこない。

 信じられない。

 信じられる訳がない。


 犀華を刺したのが曹操(しゅくん)だなどと。


『おい、誰にやられた!?』

『……っ、あんたの、主君以外に誰がいるってのよ……!!』



 虚ろな眼差しで犀華は言った。その時彼女の双眸に理性は僅かにも残っていなかった。

 しかし、怒りを夏侯惇にぶつけるかのように絞り出された声は酷く憎々しげであった。とても嘘であるとは思えない程。

 曹操が、犀華を刺した。

 何故?
 理由として浮かんだのは関羽だ。
 関羽を戦に出さぬとしてより、どうも曹操の勢いは以前よりも弱い。
 かつて掲げた覇道そのものを忘れつつあるかのような体たらく。

 関羽の側に必ず幽谷はいる。――――否、いた。
 その繋がりを、何らかの理由で断とうとして犀華を刺したのだとしたら?

 ……いいや、そんな訳があるまい。

 気の所為だ。思い過ごしだ。
 そんなことは万が一にも有り得ない。

 主君が、なんて。

 ぞわりと総毛立った。

――――一体。
 一体、この国の君主はどうなってしまったというのか。

 こんな緊迫した状況下。
 この城の中が得体の知れない何かに満たされているような、そんな気がする。
 今の状態で袁紹らとの戦に臨んで良いのか? 勝てるのか?

 そんな弱気な考えは抱いてはいけないと、心の中でもう一人の自分が叱りつける。

 だが、どうしても。
 どうしても胸を満たす漠然とした不安だけは、到底無視することは出来なかった。


「曹操様……何故そのようなことを」


 真意が分からない。
 主君であるのに、一生、この身を捧げると夏侯淵と共に忠誠を誓った筈だのに。

 このまま黙ってついて行っても良いのか。
 それが曹操の為になるのか。
 それが兌州の為になるのか。
――――分からない。

 このまま、彼を放置して良いのだろうか。
 水面下で、犀華と幽谷の身体が傷ついている事実に目を閉じて口を閉じて。
 袁家との戦だけに集中しても良いのだろうか。

 彼は舌打ちし、ぽつりと漏らした。


「……砂嵐」


 何故その言葉がこの時口を突いて出たのか、それは彼にも皆目分からない――――。



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