21
関羽は部屋で一人ぼーっとしていた。
どうしてだろうか。何だか暑いし、思考もぼんやりしている。
先程少し歩いたけれど足がふらついてまともに歩けなかった。
おかしい。
ぱたりと寝台に横になると、急激に身体が気怠くなって意識が何かに持って行かれそうになる。
風邪、だろうか。
いいえ、そんな筈はない。
風邪を引くようなことは何もしていないもの。
おかしい。
薄れていく意識の中、扉の向こうで声がした。女性のものだけれど、判別出来ない。女官、だろうか。
返事をしなくちゃ、扉を開けなくちゃ。
重い身体を起こし寝台を降りた直後である。
ぐらりと眩暈に足がもつれてしまった。
冷たい床に身体を強か打ち付け、呻きが漏れた。
今の音で相手は不審に思ったんだろう。
扉が開かれるのがぼやけた視界でも分かった。
慌てたような声が降ってくる。
……この声、何処かで聞いたような気がする。
何処、だったっけ。
手が頬に触れた瞬間に感じたとした感触に目を伏せた。凄く、気持ちが良い。
ふっと、全身から力が抜けていく――――。
‡‡‡
……歌が聞こえる。
静かで滑らかな歌声だ。鼓膜をすり抜けて、脳に、身体に染み渡るような――――例えるなら水だ。未開の自然、その中を川をさらさらと流れる水。冷たさの中にも、包容力のある声だ。
心地良い歌に、優しく抱き上げられるかのようにゆっくりと関羽の意識は浮上していった。
「う……」
呻くと同時に歌は止んでしまう。それを惜しみながら瞼を押し上げると、顔を覗き込んでくる女性。
一対の、色の違う瞳。
「……幽谷?」
途端、瞳は揺らいだ。悲しげに、暗さを帯びた。
徐々に瞭然とする思考が違うと訴えた。間違えてしまったと責めた。
それに、はっとする。
「さ、犀華……!」
がばりと身を起こそうとすると、肩をそっと押さえつけられた。
「寝てなさい。また倒れるわよ」
「……ごめんなさい」
「もう慣れたわ。……気にしてない」
ふいと顔を背ける彼女に胸が痛んだ。
分かっているのに、やっぱり重ねて間違えてしまう。その度に彼女は傷を負う。
また謝ろうとすると阻むように犀華が関羽の視界に小さな包みを入れた。
「……これは?」
「薬。恒浪牙様に頼まれたの。これをお茶に淹れて飲めば、少しは気分も安らぐだろうって。だから届けに来たの。……後で、風邪に効く薬も貰ってくるわ」
「あ、ありがとう……でも、悪いわ。あまり外は歩きたくないのに」
「言ったでしょう。慣れたって。慣れればどうってこと無いわ。それに……」
言い掛けて、口を噤(つぐ)む。
そうして何かを言いたげに、不安げに関羽を見ろした彼女は、関羽が声をかけるとまた顔を背けて腰を上げた。
その時に、何故か鉄の臭いがした。
「さっき、曹操が来たわよ」
「え、曹操が?」
「酷く狼狽していたようだけれど、後で来るように言ったから。薬は彼に届けて貰うことにするわね」
犀華はそれだけ言うと、関羽を振り返らずに部屋を出た。
――――見間違いかもしれない。
彼女の左の脇腹が、赤かったような……?
……この時、関羽は気付かなかった。
倒れる前まであんなにも身体を苛んでいた気怠さも、熱も。
何もかもが、あの苦しみが嘘のように軽くなっているということに。
気付くのは、夜になってからである。
‡‡‡
じくじくと腹が痛む。
人気の無い場所を選んで壁伝いに歩きながら犀華は奥歯を噛み締めた。
曹操が関羽のもとを訪れた時。
何も無かった訳ではない。
曹操は犀華の言葉を聞くまでもなく剣を彼女の腹に突き刺した。
その時の彼は――――我を失っていたと言っても良い。関羽に犀華が何かをしたのだと決めつけて問答無用で攻撃した。
その氷と闇が混ざり合ったような瞳が怖くて逃げ出したかったけれど、関羽に危害を加えていた訳ではないし、そのままでいるのも非常に癪だった。
だから逆に曹操を叱りつけて一旦帰したのだった。……帰せたことに自分が一番驚いている。
これから恒浪牙に風邪に効く薬を貰って、曹操に渡して――――それまでこの身体は保つだろうか。
……そうだ、水。
幽谷は水をかければ傷は治ると言っていた。
「……いえ、駄目だわ」
今は犀華で、犀華の時は水をかけても治りはしない、らしい。それに絶対に水辺に近付いてはいけないとキツく言われてもいる。
でも……でも、この場合は仕方ないわよね。『らしい』のだから、少しくらいは、可能性があるかも――――。
そう、内側に語りかけるように思うと、じりじりと胸がひりつくような感覚。犀華の言葉を否定するかのようだ。幽谷は、定かでなく危ない賭に出るよりも、恒浪牙のもとでちゃんと治療を受けることを勧めたいらしい。
しかしそれでは、恒浪牙に安静にしていろと言われてしまうだろう。曹操に風邪薬を渡せなくなってしまう。
自分で決めた以上は、自分でちゃんと果たさなければならない。そりゃあ、怖いけれど、曹操にはもう会いたくもないけれど。
恒浪牙達は忙しい。自分で出来ることならするべきだと思うのだ。
犀華はふと足を止めた。柱の影に身を隠す。
兵士だ。
二人の兵士が談笑しながら犀華のすぐ側を通過していく。
ぎゅっと目を瞑って息を殺す。
血の臭いが怖い。彼らがそれを察知したらどうしよう。
見つかったら、どんな風に誤魔化せば良いだろう。
見つからないでと願いながら兵士達の気配を注意深く追う。
そうして、過ぎ去ったのだと分かると大仰に吐息を漏らした。
「良かった……」
そっと周囲の様子を窺って柱から離れた彼女は、また壁に寄りかかって歩く。
恒浪牙は何処にいるだろう。
早く、恒浪牙様を見つけないと……。
もうこの肉体は、あたしだけの身体じゃないのだから。
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