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現れた男は夏候淵と言い、夏候惇の血縁らしかった。曹操がいない間は董卓に従っていたらしい。
何処か子供のような夏候淵に、曹操と夏候惇は雰囲気が変わったように思う。何というか、柔らかい。
だが夏候惇の身内だとすれば猫族に対する差別意識も強いと予想される。
幽谷はさすがに関羽の手を離し、いつでも外套の下から暗器を取り出せるよう、帯に手を当てた。
すると案の定――――。
「って! 十三支!? なんで薄汚い下民がここにいるんだ!?」
咄嗟に相手に投擲(とうてき)して使う、槍先のような飛ヒョウを手に持った。関羽に見られないように掌に隠す。
「あぁ!? 誰が下民だコラァ! 勝手にテメーのものさしでもの言ってんじゃねーよ!」
「下民を下民と呼んで何が悪い! 貴様ら十三支は、あの化け猫妖怪“金眼”の末裔だろう! 獣化して暴れるという話も聞く。そんな物騒な化け物が人間様の世界に下りてくるな!!」
「んだとぉ……!」
――――《金眼》。
ああ、まただ。
その言葉に異様に胸がざわめいた。嫌悪にも憎悪にも似たこの黒くて気持ち悪いうねり。
金眼はその昔大陸中で暴れ回った猫の大妖だ。人間達の間では、夏候淵の言う通り猫族はその末裔だと言われている。
だが幽谷には、猫族に出会う前からそのことが不快で不快で仕方がなかった。それを口にする人間が気持ち悪い。
幽谷は飛ヒョウを取り落として胸を押さえ、少しばかり俯いた。
関羽が異変に気が付いた。
「幽谷? どうしたの? 顔が真っ青よ」
「……いいえ、何でもありません」
関羽に顔を覗き込まれてはっとした。
すぐに飛ヒョウを拾い上げて外套の裏に戻し、彼女に笑いかける。
「そう……? なら良いけれど……ここに来るまでもずっと徹夜していたから、疲れが出たのかしら?」
「……そうかもしれませんね。さすがに、身体が鈍っていたようです」
「申し訳ございません」幽谷は謝って、軽く頭を下げた。
すると、くいっと劉備が握った手を引いてきた。
「如何致しましたか、劉備様」
「ねえ、幽谷。じゅうざってなあに??」
「!」
瞠目。
「十三支が何か……とは、」
一体どう言えば良いのだろう。
困惑して、幽谷は口を噤んでしまった。
「ねえ、関羽、世平?」
「劉備様……」
「それは……」
世平も関羽も、言葉を濁す。
彼の純真な問いに答えたのは夏候兄弟だった。……ただ、非常に人間の主観的な返答ではあったが。
「そこの子供は自分が不浄の者である自覚もないのか。十三支とは、十二支の時の流れにあるこの世の中であってはならない十三番目の存在」
「十二支に入ることも許されぬ猫。人からも獣からも、世の理からもあぶれた卑しい者たち。それが貴様らだ!」
その割に、本物の猫は愛玩動物として可愛がられているようだけれどね。
ちらりとそんなひねくれたことを思う。
しかし劉備は、
「? ……ぼく、いやしいものたちじゃないよ? 劉備だよ??」
誰もが驚き、言葉を失う。
誰もが、この発言だけは予想し得なかった。さすが劉備というか……尊敬に値する。
劉備なりの凄さを、改めて実感する。
その場に横たわった沈黙を破ったのは、張飛の豪快な笑声だった。
「ははははははは!! そりゃそーだ、劉備は劉備だ! よく言ったぜ、劉備! こんな頭でっかちたちよりよっぽど頭がいーな!」
劉備は何を褒められたのか、全く分かっていなかった。
幽谷は隠れて苦笑する。
されどまた夏候惇と張飛が衝突してしまってはそれどころではない。一体何度目だろうか。
「張飛様。その元気は別の場所にぶつけて下さいまし。下らない問答を繰り返していては、時間の無駄です。私達は将軍と会う為に来ているのですから、どうかそれをお忘れなく」
「……わーったよ」
「ちょっと待ってくれ、兄者。そこの女は人間だろう。だのに何故十三支なんぞに敬語を使っているんだ」
「夏候淵、それは後で――――」
「私は人間ではありません。四凶です」
ぼそりと、その場にいる者にしか聞こえない程度の声で言ってやれば、夏候淵は仰天した。
「なっ、しきょ――――」
「夏候淵!」
「んんっ!?」
……夏候惇に口を塞がれたらしい。
今度は上手く行くと思ったのだけれど。
「ぷはっ――――兄者!」
「お前たちいい加減にしないか」
静かな声音が咎める。
今までほとんど言葉を発していなかった曹操は、ほんの少しだけ声に棘があった。
まあ、これだけ時間を浪費していれば無理もないか。
「私たちのなすべきことは黄巾賊の首領、張角を討つこと。お前たちはそのためにこうして連れ帰って来たのだ。くだらない喧嘩はするな」
「曹操様……! 申し訳ございません」
「何ですと!? では、こいつらは曹操様が連れてこられたのですか! どういうことだ、兄者?」
夏候淵が問い質(ただ)しても夏候惇は答えない。
彼も、主の思惑を計りかねていた。
ここに来るまでの七日間、何度か曹操に真意を訊ね、もう一度考え直すようにと進言していた夏候惇の姿を、幽谷は見聞きしている。
それで、曹操が彼の満足する返答を返したことは一度も無い。
「十三支たちよ、これからお前たちが会う董卓はこの討伐軍を率いている将軍だ。戦場ではお前たちの指揮もとる。せいぜい嫌われないようにすることだな」
嘲笑うような響きに、幽谷は目隠しの下で目を細めた。
曹操という人間は、自分も猫族もただの戦の駒としか見ていない。
その価値は恐らく、兵に支給される刀剣よりも低いだろう。
‡‡‡
とある天幕の前に至り、曹操が入り口に控える兵士に声をかけた。二・三言葉を交わす。
兵士は曹操に頭を下げ、天幕の中に向かって声を張った。
「董卓様、曹操様がいらっしゃいました」
「うむ、通せ」
「ハッ!!」
天幕の中から聞こえてきたのは、未だ記憶にも残っている濁声。
幽谷は劉備と関羽の手を離し、彼らに頭を下げた。
「私は、外でお待ちしております。お気を付けて」
今董卓に会う訳にはいかない。
あの女丈夫がいないとも限らないのだから。
彼らの返事を待たずして、幽谷はその場から少しだけ離れた。
視界が真っ暗なので、手で確認しながら適当な天幕近くに立つ。
――――だが暫くすると、関羽と劉備達のことが心配で結局戻るのである。
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