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 どうしてか、ままに中庭へ行くと夏侯惇が必ずいる。
 しかも毎日来ているらしい彼は非難がましい目で幽谷を睨んでくるのだ。

 そこへは気分で訪れているのだから、別にどうでも良いじゃないかと思うけれども、幽谷は反論はせずに決まって素直に謝罪する。
 どうして幽谷に接触しようとしているのか、漠然と分かっているから。

 自分と接したとて無駄なことだ。時を徒(いたずら)に過ごすだけ。
 夏侯惇の求む人物は、この世には最初からいなかったのだから。

 今宵も幽谷を待ち受けていた彼は、彼女の青白いかんばせを見るなり、


「……貴様、顔色が悪いようだが?」

「気の所為でしょう」


――――嘘である。
 実際、幽谷は今身体が非常に怠かった。
 けれども口が裂けても夏侯惇には原因を言えない。


「月明かりで、そのように見えるだけです。お気になさらず」

「……そうか」


 夏侯惇は探るように幽谷を見つめてくる。

 幽谷は黙ってそれを甘んじた。
 しかし、さすがに何処かに座りたい。

 夏侯惇に会釈して、幽谷は階段に腰を下ろす。


「毎日のようにここにおられるようではございますが、今は袁紹との関係が思わしくないのでは?」

「ああ。いつ戦になってもおかしくはない。……が、曹操様に、先手を取る様子は無い」

「あの曹操殿が」


 ……関羽に執着するが故か。
 関羽にのみ固執するあまり、彼が今まで求めていたものがおざなりになっているのだろう。幽谷に思い付く要因とすれば、それしか無い。だが、間違っているとは思わない。

 夏侯惇は予想だにすまい。
 己の主がたった一人の女の為に、見るべき局面から目を離しているなどと。

 曹操は関羽に異様に固執している。
 関羽の一挙一動に機敏に反応する彼は、彼女次第でどんな方向にだって傾くだろう。

 加えて、犀華にも危害が及ぶかもしれない。
 曹操らほとんどの者は犀華は幽谷であると認識されている。本当は、幽谷が犀華の偽者なのに。
 だから、犀華が関羽に接触する――――つまりは幽谷が関羽に寄り添っていると、曹操は判断してしまうのだ。

 さすがに今の状態では、犀華と関羽、両方を守ることは難しい。
 ならば、犀華の安全を確保するべきだ。曹操が、己の籠に収めた関羽を傷つけることは考えづらい。


「戦になれば、関羽様は駆り出されるのでしょうね」

「いや、曹操様はあの女は出さぬおつもりのようだ。お前達もな」

「……そうですか」


 まあ、それは予想も難(かた)くない。
 幽谷は片目を眇めて吐息を漏らした。


「犀華殿が戦場に出されないのであれば、十分です」


 犀華は犀家の技術を会得してはいるけれど、とても戦場で戦えるような人間ではない。
 何がなんでも彼女を戦に出させる訳にはいかないのだった。

 ざわざわとざわめく胸に苦笑が漏れた。身体の中で犀華が反論しているのだ。
 夢のような不可思議な世界で接触が可能になってから、こうして起きている時にでも何らかの形で意思疎通を図れるようになっていた。これは、すでに犀煉達も知っている。犀華が教えたから。

 ……今の自分は、とても関羽に仕える者だとは言えない。
 関羽よりも犀華のことを最優先とし、関羽に何もかもをひた隠しにしている。
 昔の自分が見たら……激怒し罵倒するだろう。

 忠義に反している。

 けれど、関羽は知らなくて良い。知って欲しくない。
 彼女にだけは、《犀華》も《幽谷》も本物だと思っていて欲しいから。
 せめて、その我が儘だけは――――。


「何故そこまで犀華に肩入れする? 貴様とて、今のその状態に納得している訳でもあるまい」

「いいえ。納得しております。でなくば犀華殿を守ろうなどとはしません。ただ、満足に関羽様をお守り出来ませぬ故、幾許(いくばく)かの歯痒さを感じてはおりますが……」


 淡々と言うも、夏侯惇は険しい顔を解かない。疑わしそうに幽谷を見下ろす。

 ……彼は一体何がしたいのだろうか。
 砂嵐と重ねているとは言え、こうも自分への態度が不可思議であると、首筋がどうにも痒くて仕方がない。


「ですが、あまり《私》が表立つのも、関羽様のことも含め、曹操殿を刺激してしまいますから。そうなれば、矛先は私の身体にいる犀華殿に至る。矛先が煉達であれば大したことでもないとは存じますが、犀華殿は何としても守らねばなりません」


 犀華は弱い。
 それは自他共に認めていることだ。
 犀華自身、犀家では己の価値が『その力』にしか無かったと分かっていた。……気付かないフリをしていただけで。本来の彼女は、良く出来た性格をした愛らしい女性であるというのに、犀家の欲目がそれを押しやってしまったのだ。

 犀華の不安定な精神が彼女自身の《力》を暴走させかねない。
 一つの身体に共にいるからこそ、彼女の感情の動きに応じて秘められた力が揺らいでいるのがよくよく分かる。

 自分が犀華と接触出来て、幸いだったと思う。会えばきっと更に彼女を追い詰めてしまうのではないか、そんな懸念は一度目の邂逅で消え去った。
 彼女の感情の揺れが分かる幽谷が夢の中で少しでも不安も何もかも払拭しようと、不慣れながらに毎回言葉を尽くしていた。……自分よりもずっと学のある犀華に小馬鹿にされるのも毎度のことだ。

 その甲斐あってか最近は彼女の精神も安定し、揺さぶられることもほとんど無い。


「私のことは、引き続き内密に」

「……分かっている。今のところ、曹操様に害は無さそうだしな」

「仕返しを食らうのは犀華殿なのですから、害を与えるつもりはありませんが……まあ、良いでしょう」


 今までの話を聞いていて分からなかったのかと非難がましい目で夏侯惇を見るが、やがて諦めたように吐息を漏らして立ち上がった。


「戻るのか」

「ええ。私はこれにて失礼致します」


 会釈して、彼女は階段を上がる。
 そのままいつも通り部屋に戻るつもりなのだが、そこで幽谷は夏侯惇に呼び止められた。


「……何でしょうか」

「貴様の…………、いや、何でもない」


 突っ慳貪(つっけんどん)な物言いに幽谷は眉根を寄せた。

 ばつが悪そうに顔を逸らす夏侯惇は、もう何かを言おうとする素振りは見られない。
 それ以後は待つだけ時間の無駄かと、幽谷は彼から視線を離して歩き出した。



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