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 関羽は真っ黒な世界をさまよっていた。
 ここは夢の中なのだろう。歩いているという感覚は無く、ただその場に浮遊している。手を振ってみるけれども何にも当たらない。

 ここには何も無い。

 されども決して恐怖も不快感も感じなかった。
 あるのは真綿のような安堵感だ。
 関羽は周囲を見渡しながら感覚に心地良い身を委ねた。

 すると無音の暗闇に一筋の光が射し込む。
 強烈な光は、徐々に世界を呑み込み、真っ白に染め上げる。

 眩しくて目を閉じていた関羽は落ち着いた頃、瞼を上げて目を丸くした。

 神聖な純白に囲まれた世界。

 その向こうに、見慣れた女がいた。
 だが、腰まで緩やかに流れるその髪は艶やかな漆黒で、右目は長い前髪で隠されている。おまけに瞳は真っ黒だ。
 関羽の良く知る人物に酷似しているのに、違っていた。

 彼女は関羽に気付いた様子も無く、不意に関羽に向けていた身体を反転させて腕組みした。右足に体重をかけて声を発する。


「それで? これはどういうことなの? あたしには全然分かんないんだけど」

「……私も、同じなのですが」


 ……え?
 関羽ははっとした。
 今の落ち着いた声音……まさか。

 今まで気付かなかったが、女性の向こう側に誰かがいるようだ。だが、女性に隠れてしまって姿が見えない。
 ここから移動出来れば分かるのにと、ままならぬ己の身をもどかしく思った。

 女性は組んでいた腕を解き、今度は両手を腰に当てた。長い髪が揺れる。


「はあ? 何よそれ。うつらうつらしていたところにあんたの声が聞こえたかと思ったら、いきなり意識が遠退いてこんなことになったんじゃない。知らないなんて言わせないわ」

「ですから、私もあなたと同じく、急に意識がはっきりし出したかと思えばあなたの声を聞き、このような空間に。私よりも、表に出ておられたあなたであれば、他に何か気付くようなことがあったのでは……」

「微睡んでいたんだから、無いわよ、そんなの。大体ね、あんたは一体誰なの。これはあたしの身体でしょ? だのに髪の色も長さも違うし、無い筈の右目があるし、四凶だし、それにあいつらはあたしのこと偽者偽者って、ほんっとにウザいったら無いわ。犀家を出た記憶も無いのに……もう訳が分からない」

「この身体について分からないのは、私とて同じです。ただ、偽者なのは私であると、あなたの兄君に聞きました。それが正しいのでしょう。詳しいことは話してもらえませんでしたが」


 『偽者なのは私』ですって?
 ……どういうこと?


「あたしはその詳しいことが知りたいの!」

「そう言われましても……兄君やあの恒浪牙が話してくれるとは思えません」


 女性は苛立たしげに舌打ちする。


「良いわ。あたしが恒浪牙様に訊く」

「お願いします」

「……何でお願いされなくちゃいけないのよ」

「私も気になることですので。……ところで、話を変えてもよろしいでしょうか」

「……あんたねえ、」

「朝食をとられる際、茶には決して口を付けてはなりません。良いですね」


 「はあ?」女性は頓狂な声を発した。


「何でお茶なの」

「それは、お教え出来ません。とにかく、茶だけはお飲みになりませぬよう。身体には耐性がついてはおりますが、万が一のこともございます。あなたには、少々キツいかと思われますので」

「耐性? 一体何の話? ……あ、ちょっと! あなた身体が……!」


 慌てふためいた女性の言葉に、関羽の不安も煽られた。
 けれども女性と話す人物の様子はやはり女性に重なって見えない。見たいのに確かめたいのに。

 ややあって、


「……なるほど。そういうことですか」

「一人で納得しないでっ。……って、あたしも足が透けてきたんだけど!?」


 関羽ははっと息を呑んだ。

 狼狽する女性の足――――確かに、爪先から膝辺りにかけて半透明に変わっている。それはゆっくりと上へ上へと侵蝕しているようだ。

 けれども、その人物の声は全く慌てていなくて。


「何か原因なのかは分かりませんが、恐らくは目覚めるのでしょう」

「ちょっ、結局何なのよ、ここは!」

「分かりません。ですが危害が無いようですし、そこまで気にするようなことではないかと」

「少しは気にしなさい!! それにさっきのお茶を呑むなとかってのもまだ納得して――――」


 不意に。
 関羽は身体が落下するような感覚に襲われた。五感が遮断された。何も聞こえない。何も見えない。

 視界が暗転する。
 先程とは違う暗闇の世界。彼女は全身を襲う不安定な感覚に戸惑った。
 まだあの二人を見ていたかった。

 まだ確認出来ていない。
 まだ、まだ、まだ。

 上に向かって手を伸ばす。


「――――待って、幽谷!!」


 けれども、その先にあったのは寝台の天蓋だった。



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