15
引きずられていく。
これは自分の感情ではない。
《彼女》のものだ。
そんなことは分かっているというのに、それは彼に会う度に胸を徒(いたずら)に乱す。
《彼女》は死んだ。
《彼女》は自分ではない。
魂は同じではあるけれど全くの別人なのだ。
そう割り切るべきなのに、
記憶を共有した頭と心は言うことを聞かない。
どうしようも無い、泥濘(ぬかるみ)にはまっていく自分の足をただ大人しく見つめることしか出来ないのだろうか……。
『……それを、あたしに言われても』
あたしにはどうすることも出来ないんだけど。
辟易したような言葉に、口角が弛んだ。
‡‡‡
犀華は数日振りに外を出歩いていた。
隣には誰もいない。
意外なことにここ数日、彼女は一人でも外に出るようになった。
ただ、ままに一人で笑声を漏らすその姿が少々不気味がられていたが。
犀華の身に一体何が遭ったというのだろうか。
「おい、四凶」
廊下を歩く犀華を呼び止めたのは夏侯淵であった。
が、犀華は彼の声に気付くことも無く通過していく。
夏侯淵はもう一度呼んだ。
これも無視。本当に気付いていないのか、はたまた敢えて無視しているのか――――。
「おい! 四凶!」
苛立ちのままに声を荒げて呼ぶと、彼女はその声に驚いて夏侯淵を振り返った。
「……今、何か言った?」
きょとんと首を傾ける彼女に、気の短い夏侯淵は堪忍の緒を切らした。
拳を握って犀華に詰め寄った。
「貴様、さっきから……! わざとか!?」
犀華は不快そうに顔を歪めて一歩後退した。
「な、何よ、わざとって? あたし、今の今まであなたがそこにいたって気付かなかったんだけど」
「……」
……雰囲気が、変わっている?
今まで周りを警戒していた犀華のびくびくとした姿は少しも見受けられない。
ますます分からない。彼女の中でどんな心境の変化があったのか。
探るように犀華を凝視すると、彼女は眉間の皺を更に深くした。
「だから、あなた何なのよ。あたしの顔が何だって言うの? 今更馬鹿の一つ覚えみたいに四凶だの何だの言わないでくれない? いい加減聞き飽きてきたんだけど」
夏侯淵は面食らった。
四凶だと言うことを強く否定をしてこない。認めているような態度である。
自分は犀華だ、四凶なんかじゃない、幽谷なんかじゃないと言っていた彼女が、四凶だと言われても平然としている。
これは、どういうことだ?
「貴様……まさかあの四凶の男や地仙と何か企んでいるのか?」
犀華はそこで目を半眼に据わらせる。
「……企むって、何を?」
「決まっている。曹操様の命を――――」
「そうして、あたし達に何か利益が生まれるの? 余計に兄様達のお立場を危うくさせるだけだわ」
あたしはこれ以上兄様達の迷惑になる訳にはいかないの。
瞳を揺らしながらぼそりと呟いて、犀華は夏侯淵に背を向けた。
夏侯淵は呆け、去りゆく彼女が角を曲がった頃に我に返って彼女を呼び止めた。
しかし、追いかけても、彼女の姿は何処にも無かった。
‡‡‡
「犀華」
優しく自身を呼ぶ声に、全身に甘い痺れが走る。
心の中がとろけてしまうような、心地良い熱に犀華の頬も上気した。
自然と口角は弛み、犀華は声のした方に向き直る。
そこには最愛の兄がいた。
唯一、自分を都合の良い道具でなく人として見てくれた大切な存在。
彼は犀華の世界の中心と言っても過言ではない。
穏やかな微笑みは自分だけに見せてくれる特別な顔だ。
犀華は昔と変わらない兄に小走りに駆け寄ってはにかんだ。
犀煉は犀華の頬を愛おしむように撫でる。彼の硬くて大きな手が触れた箇所が、ほんのりと熱い。
「一人で歩いて平気なのか」
「はい。最近は、だいぶ落ち着いてきたので。兄様や恒浪牙様にはご迷惑をおかけしてしまって、ごめんなさい」
「気にしなくて良い。体調に変化があれば、隠さずに話せ。良いな」
「はい」
新しい茶葉を恒浪牙が買ってきたからと、犀煉は犀華を部屋に戻そうと背中を押した。
けれども、犀華は渋面を作って兄の袖を軽く引いた。
「犀華?」
「あの、……あの、関羽って子のこと、」
……一瞬だけ、兄の表情が変わった。
それを敏感に感じ取った犀華は起こられるかと身体を縮めたが、彼は咎めることはせず、双肩を掴んで目線を合わせてきた。
「犀華。あの娘のことはもう気にするな。幽谷の意識に引きずられているだけだ」
「え、でも……」
「良いな?」
幽谷の感情に、引きずられている?
……違う。
違うわ。
「兄様……あたしがあの子と関わるの、嫌ですか? あたしが彼女のことを気にかける都度あたしの中にいる幽谷が、あたしの意識を圧迫するから」
犀煉は無言だった。
けれどそれは肯定も同じだ。
犀華は目を細めて微笑んだ。
「……兄様。あたしはもう、幽谷のことを嫌ってはいませんよ。兄様だけに、教えて差し上げますね」
犀華はそう言って、そっと犀煉耳打ちする。
怪訝そうな彼の目が、見開かれた。
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