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 ふらりと夜中に向かったのはあの中庭である。

 別にここに来たかった訳ではない。ただ、無心で歩いていたらここに辿り着いてしまったのだ。

 そこには誰の姿も無かった。
 無人であることに落胆し、はっとなる。
 残念?
 何が残念だ?
 ここにはただ――――ただ、辿り着いただけではないか。
 己はここには何かを求めて来てはいない。

 落胆することなど、一つも無いのだ。

 咄嗟に浮かんだ女性を振り払うように首を左右に振った。違う、有り得ない。
 戻ろうときびすを返すと、廊下を歩いてくる人影を見つけた。つい先程脳裏に浮かび上がった女性だ。噂をすれば影……これでは、自分が呼び寄せてしまったようではないか。

 彼女は階段にさしかかって、夏侯惇の存在に気が付いた。不思議そうに首を傾げ、やがて納得したように軽く頷くとそのまま身体を反転させて元来た道を戻ろうとした。

 夏侯惇は自分が思うよりも早く、声を張り上げていた。


「待て四凶!」

「っ!」


 彼女はぎょっとして足を止め、周囲を見渡した。
 誰もいないことを確認すると、恨めしそうに夏侯惇を睨んできた。

 だが、夏侯惇も呼び止めた自分に困惑していた。
 口を片手で覆い、顔をしかめた。


「……何かご用ですか」


 渋々と階段を下りて夏侯惇の前に立った幽谷は、少しだけ不機嫌そうに問いかけた。

 夜は幽谷であることを秘密にしている。その為に、夜は部屋からも出ない。
 ここで人に見つかりたくないのだろう。
 夏侯惇はばつが悪くて目を逸らし、取りなすように咳払いをして問いを投げ掛けた。


「何故戻ろうとした」

「夏侯惇殿がいらっしゃいましたので。何か考え事でもありますれば、邪魔をすることは避けるべきかと」

「……俺は、ただここに来ただけだ」

「左様でございましたか」


 はあと吐息を漏らした幽谷は夏侯惇の脇を通って池に近付いた。


「おい、不用心に池に近付いて良いのか」

「……さあ、どうでしょう。恒浪牙殿が何か対策をして下さっているらしいですが」


 水場から伸びたあの不気味なモノは、夏侯惇も鮮明に覚えている。
 忘れた訳ではあるまいに、彼女は池の縁に座り込んで水面を見下ろす。

 ややあって、


「……ですが、そうですね。私が勝手に危険に晒していては犀華殿にご迷惑がかかりましょう」


 危うきには、近付かない方が良い。
 幽谷は立ち上がるとそのまま階段の方まで歩き、腰を下ろした。

 その一連の動作を眺め、夏侯惇は池を見やる。

 あれは出てくる気配を見せない。
 けども、あれに引き込まれそうになった幽谷を助けたのも、この池だ。
 いつまた出てくるか分からない。

 それなのにどうして昨夜も今日も、彼女は池の側に寄るのか――――。


「――――っ!?」


 不意に左の頬に感触。

 仰天してその場から立ち退くと、つい先程階段に座ったばかりの幽谷がいつの間にか側に立っていた。頬に触れたのは彼女の手のようだ。


「な、何をする!?」

「左目はもう痛まないのですか?」


 左目――――眼帯に触れ、夏侯惇は幽谷から距離を取った。
 損傷が一番酷かったのは左目の眼球だった。目の周囲は軽い裂傷ばかりで、痕が残るようなものではないらしい。
 痛まないと言えば嘘になるが、袁紹の動向が気がかりで自分だけ休んでなどいられない状況だった。

 問題は無いと素っ気無く答え、幽谷から目を逸らす。


「……そうですか」


 幽谷は緩く瞬き、再び階段に近寄って腰掛けた。
 それからはもう夏侯惇に対する興味が失せてしまったかのように、夜空を仰ぐ。

 その姿に、また一瞬だけ砂嵐がチラツいてしまう。
 おかしな話だ。
 彼女は砂嵐ではない。砂嵐であろう筈がない。

 砂嵐は、泉沈に殺されてしまったのだから。
 自分の顔を傷つけて。

 彼女はどうして、何をしたのか、今となっては分かる者は無い。
 砂嵐が死んだその事実を思い出す度に、胸が締め付けられるような苦痛に襲われる。
 その感覚が何なのか、夏侯惇には分からなかった。ただ、世話になった相手だから自分が思うよりも親しみを感じていたのだと認識しているものの、それもしっくり来ていない。

 砂嵐の姿を思い出していると、ふと幽谷が立ち上がった。我に返っても遅く、彼女は居心地が悪そうに顔を歪めていた。


「……私が、何か」

「いや」

「……」


 探るように、彼女は無言で夏侯惇を見据えてくる。

 夏侯惇はそれを仕返しだと思ってたじろぐが、


「……よもや、砂嵐殿のことを気になさっておられるのですか」


 見透かされたように、言われた。
 どくりと心臓が跳ね上がると同時に、何故それが分かったのかと、思わずまじまじと幽谷を見てしまった。

 幽谷の顔がまた歪む。吐息混じりに彼女は語った。


「……彼女の器と彼女の魂の繋ぎに私の魂は使われておりましたので、多少の記憶も持っております。砂嵐殿の仕種の所々に私の癖が出たとしても何ら不思議ではありません。私に砂嵐殿の面影を見ておられるのであれば、恐らくはそれが原因でしょう」

「……では、やはり砂嵐は、」

「あなたがどなたと同一視しておられるのかは存じませんが、彼女が以前どのような身の上だったかまでは私の中には残ってはおりませぬ。私に訊ねることは無駄です。ただ、記憶の一切を消す程に彼女の精神は弱り切っていたようですから、きっと、相当な過去をお持ちだったのでしょうね」


 夏侯惇は唇を引き結んだ。
 恒浪牙の言葉を裏付けるような彼女の話に、彼の中にあった疑念は確信へと変わっていく。

 幽谷はそんな彼を眺めていたが、一瞬だけ瞳を揺らして立ち上がった。


「私はそろそろ戻ります。ここに来ていることは、煉達には言っておりませぬ故。あまり長居は出来ないのです」


 夏侯惇の返事を待たずに、彼女は廊下に上がって大股に歩き去ってしまう――――。



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