12
彼女は言う。
『あなたでいる時は、絶対に食事を口にしないように』
彼女は言う。
『私であれば、まだ大丈夫でしょうから』
彼女は言う。
『私の方が、偽者ですから』
彼女は責める。
そんな態度であたしを責める。
けど、あなたはちゃんと《あたし》を見てくれるのね。
あたしのこと、名前で呼んでくれるのね。
あたしの記憶を肯定してくれるのね。
あたしに、まるで姉のように優しくして、守ろうとまでしてくれるのね。
あたしが年上なのに、変な人。
‡‡‡
深夜、池の畔で犀華を見た。滅多に部屋の外に出ない彼女が珍しい。
偶然通りかかった夏侯惇は水場の側であることから、離れさせた方が良いかと彼女に歩み寄った。
――――けれども、違和感。
犀華にしては、後ろ姿に隙が無い。
夏侯惇の様子に気付いている様子は見受けられないが、それでも無用意に近付けば命を奪われるような、そんな無意識の緊迫感が取り巻いている。
まるで――――幽谷ではないか。
そう言えば、彼女は夜部屋を出ることはあっただろうか。
……いいや、無い。
そも、散歩をするのであれば人の少ない夜の方が犀華には楽な環境だろう。わざわざ奇異の目に触れるような昼間を、頻繁に歩き回ることは無い。幾ら日の下が良いとて犀華は人に過剰な程に怯えている節がある。犀煉達と一緒にいるとて、人の目に触れることが彼女にとって大きな負担であることは、誰の目からも明らかだ。
なのにどうして、敢えて人の多い昼間に?
夜中だと都合が悪い?
……まさか。
夏侯惇は徐(おもむろ)に剣を抜いた。
気配を殺してゆっくりと彼女に近付く。
そして――――斬りかかった。
背後に迫って剣を薙いだ。
その瞬間彼女の姿が消える。
追おうと目を右に動かすと同時に、首を後ろから掴まれる。爪が食い込んだが、すぐに手が強ばって離れていく。
腕を振って彼女を離した夏侯惇は姿勢を正して剣を鞘に戻した。
「……やはり、お前か」
「……」
彼女は暫し沈黙し、やがて深々とした溜息を漏らした。
「まさか、あなたに知られてしまうとは思いませなんだ」
今まで犀華殿らしく振る舞っていたのですが。
彼女――――幽谷は心底残念そうに呟いた。
夏侯惇は目を細めた。
「何時からだ」
「最初からです。昼は犀華殿、夜は私の意識が表に出るようになっているらしく」
知られてしまったからだろうか。
幽谷は夏侯惇の問いに神妙に答えた。少々、意外である。
「十三支の女には言わないのか?」
「犀煉や恒浪牙以外に知らせるつもりはありません。そちらもどうか、他言なさいませぬよう」
幽谷は身体を折ってこうべを垂れた。
夏侯惇の返答を待って、一向に顔を上げない。
他言しないとなれば、勿論曹操にも伏せておかねばなるまい。
主に秘密を持つことに強い罪悪感を抱く。
だが、あの関羽に絶対の忠誠を捧げていた幽谷がその関羽にすら黙っているとは、尋常だとも思えない。
「理由を話せ。納得出来なければお前の言葉を受ける訳にはいかん」
「……」
幽谷は沈黙する。
ややあって、顔を上げた。それからも暫く言いにくそうに唇を歪めていたけれど、最後には諦めて周囲を見渡した。
「犀華殿が、辛い思いをなさいますから」
「……何?」
「関羽様が私が夜に目覚めると知れば、恐らくは夜にだけ接触しようとなさるでしょう。けれどもそれは犀華殿に対する完全な否定です。彼女は脆い。このまま傷つく姿を、私は見たくありません。それに、本来否定されるべきは私なのですから」
幽谷は無表情だ。自身を感情を夏侯惇に晒すことは無い。
否定されるべきは自分だ――――それはどういうことか。
問いかけても彼女は答えなかった。
ただ、目を伏せて無言で再び頭を下げる。また、その体勢で夏侯惇の返答を待っているらしい。
夏侯惇は唇を引き結ぶ。
腕を組んで思案し、舌打ちする。
確かに、幽谷の言う通りの行動を、あの十三支はするだろう。
だが不思議なのは幽谷の思考だ。
今はあの十三支よりも、犀華を守ることを優先している。
幽谷が何故絶対の主人に黙ってまで犀華のことを守ろうとするのか分からぬが、彼女は至って本気だった。本気で犀華を追い詰める者を避けようとしているのだ。
そのことに、夏侯惇は何か異様なモノを感じた。
果たして犀華という人物はそれ程に重要な人物なのか。
彼女達には、一体どんな秘密がある?
曹操に告げた方が良いかと、一瞬だけ脳裏を過ぎった。
けれども幽谷のことだ。
そんな素振りを見せれば何かしら術で夏侯惇か、或いは曹操に危害を加えようとするだろう。
今袁紹の脅威に晒されている兌州の状態を考えれば、曹操の近辺に問題を起こす訳にはいかぬ。
暫くは、自分が様子を見ておいた方が無難か……。
そう思い至って、夏侯惇は首を縦に動かした。
「分かった。このことは、黙ってやろう。ただし貴様らが曹操様の害となれば、話は別だ」
「……ありがとうございます」
そこで、幽谷は顔を上げて表情を弛める。
安堵したような、微かな笑みを浮かべて拱手(きょうしゅ)する彼女に、夏侯惇はうっとなった。
何故だろうか。
彼女の後ろに、一瞬だけ砂嵐を見たような気がしたのだ。
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