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暴れて怪我をするというのは、少なからずある。
さすがに酷くはないが裂傷を多数作った手は、見るからに痛々しい。
恒浪牙に小言を言われるけれど、犀華はそれでも激情を調度品に当て続けた。それ以外に、何にぶつけたら良いか分からないから。
それに、朝目覚めたら壊した調度品などが綺麗に片付けられているのが気に食わない。
――――《あいつ》だ。
あいつが、片付けているんだ。
……もう、嫌だ。
自分が何なのか、何もかもが分からない。
記憶は確かなのだけれど、その中に違う人間の記憶が混ざって余計にぐちゃぐちゃになっている。
世平なんて知らない。
張飛なんて知らない。
蘇双なんて知らない。
関定なんて知らない。
趙雲なんて知らない。
劉備なんて知らない。
あたしは、四凶でも何でもない。
普通の人間だ。
最近、外が怖くて寝台の上で頭を抱えて時を過ごすことが多くなった。
そして、唐突に激情が蘇って衝動が押し寄せるのだ。
昔以上に自分が不安定になっている自覚はあった。
昔のように自傷行為をしないだけ増しだけれど、いつまたやり出すか分からない。
恒浪牙達が自分の面倒をつぶさに見るようにしてくれているけれど、それでも彼らにもこの城では役割がある。犀華の部屋を訪れられない日もあった。
関羽も、もう自分には構わないようになった。
幽谷という女ではない自分は、彼女にとっては悪者だ。
大事だったのだろう幽谷を彼女から奪った悪役。
でも違う。
あたしはあたし。
昔から、あたしとして生きてきた。
だのに、幽谷とは誰?
あたしは犀華なのに。
どうして誰も、幽谷が本物だって目であたしを見るの?
あたしは本物だわ。
偽物は幽谷。
何で。
何で。
何で。
嗚呼、独りでいると気が狂いそうになる。
自分が分からなくなる。
あたしは、犀華。
だのに、皆、あたしに幽谷を求める。
あたしの記憶を、否定する。
『犀華殿』
不意に、扉の向こうから聞こえてきた声にびくりと震えた。
再び自分を呼ぶ穏やかな声がして、相手が恒浪牙であることに心の底から安堵する。
全身から力を抜いて疲れたような声で応じると、扉がゆっくりと開かれた。
彼は部屋の有様に苦笑を浮かべ、寝台に腰掛けた。
そっと頭を撫でて犀華を抱き寄せる。犀煉とは違う、まるで父親のような包容力があった。
「すみません。また辛い思いをしてしまいましたね」
「……あ、たしは」
幽谷じゃない。
三度程繰り返すと、恒浪牙は肯定してくれる。
彼も犀煉も犀華を犀華として見てくれる。
それだけがこの地獄の中の救いだ。
犀華は袖をぎゅっと握り締めた。
「犀華殿。今日は私と城の中を歩きましょう。大丈夫。私が側にいますから、周りの目は気にしなくて良いんですよ」
「……」
嫌だ、と言おうとしてすぐに呑み込んだ。
ここで断ったら彼が傷つく。……嫌われてしまうかもしれない。
それは嫌だ。
暫し沈黙してこくりと頷くと、恒浪牙は犀華に着替えるように言って部屋を出た。
恒浪牙の言葉に従って寝台から立ち上がった犀華は、衣装箱から適当な衣服を取り出す。
幽谷の衣服を着続けることに嫌気が差した犀華の為に犀煉と恒浪牙が用意してくれた服は、素朴ながらに女らしく、動きやすい。
寝衣に手をかけて帯を解き、襟を開くと、恒浪牙でない怒鳴り声が聞こえてきた。
犀華は怒声に驚いてそのまま固まってしまった。
『ちょっ、夏侯惇将軍! いきなり押し掛けてきてどうしたんですか! 女性の部屋ですよ!!』
『五月蠅い! 曹操様より与えられた部屋を壊すつもりなのかあの女は!! これ以上壊すようなら牢屋に入れてくれる!!』
『だからそれは後で――――ってちょっとーっ!! 今彼女は、』
「おい四凶!! 貴様――――」
……。
「あ……」
夏侯惇はその場で固まった。
犀華の襟から、際疾(きわど)いところまで覗く乳房や腹。
彼の隻眼はそれを視界に収めていた。
犀華ははっと自分の身体を見下ろし襟を合わせた。
「っいやああぁぁぁ!!」
咄嗟にその場に転がっていた香炉を夏侯惇に投げつけた。
が、それは夏侯惇ではなく恒浪牙の額に直撃してしまう。
「いたぁっ!!」
「えっ、あ……!」
犀華は青ざめた。襟をぎゅっと握り締めた。夏侯惇の横を通り過ぎてうずくまってしまった恒浪牙の前に座り込んで狼狽える。
「す、すみません、あたしったらよく見ていなかったから……!」
「い、いえ、良い力加減でしたよ……傷が出来ないとは言え、頭の中にまでとんでもない衝撃が……。取り敢えず、夏侯惇将軍にはご退場願いましょう。犀煉にバレたら確実に彼は殺されてしまいます。彼はただ、主人の城の一部を壊されることに腹を立てていただけですから」
他にも理由はあるんでしょうけどね。
犀華の双肩を叩いて、彼は立ち上がる。
顔を真っ赤にして片手で顔を覆っている夏侯惇の背中をバシンと平手で強く打ち、襟首を掴んで無理矢理に退出させた。
「二回目なんですから今更恥ずかしがる必要も無いでしょうに……」
ぼそりと呟いた彼の言葉に、犀華の羞恥は更に膨れ上がった。
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