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暫く歩いていると、不意に劉備が泉沈の腕を掴んで走り出した。登っていた山道を、脇道に逸れて下っていく。
振り払おうとしても無駄だ。
この華奢な身体からは想像も出来ぬ力で《しっかりと》泉沈の腕を掴んで離さない。これは、痣が出来てしまいそう――――否、これは確実に出来る。骨が軋んでいるもの。
泉沈は忌々しそうに顔を歪め、彼に従った。
劉備は何を見つけたと言うのか。その足取りに一片の迷いも無い。目的地が定まっているかのようだ。
何処に行くのか……それを訊ねようとして、泉沈ははっと踏ん張った。
声が聞こえたのだ。
聞きたくもない、猫族と人間の――――。
劉備はこの声の主らと合流するつもりだったのだ。
尚も行こうとする劉備の圧力に逆らって、泉沈は近くの木を掴む。
瞬間、
「っ!?」
何の前触れも無く、掴んだ木が爆ぜたのである!
破片が目に入りそうになって思わず木から手を離して顔を覆う。
その隙に手を引かれて彼の身体に倒れ込むように傾いだ。
背中に手を回され強く抱き締められる。
ぞわり。
これは悪寒だ。
本能がこの少年に対しかまびすしい程に警鐘を鳴らす。逃げろ、逃げろ――――頭の片隅で誰かが必死に叫んでいる。
けれども、泉沈には逃げる術が無かった。
自分の力では、この少年に抗うことが出来ぬと分かっているから。
抵抗を忘れて身体を竦める泉沈に、劉備は笑声を漏らした。吐息が泉沈の耳を擽(くすぐ)る。
「君には感謝しているよ。君が僕を呼び覚ましてくれたのだもの。……幽谷をあんな風にしたのは、許せないけれど」
「……っ」
「だけど、殺さないよ。さっきも言った通り感謝もあるし、君はとても可哀相な子だから。猫族に何をされたか、《僕》は良く覚えている」
ひゅっと息を吸う。
劉備の言葉を聞いた途端全身から汗が噴き出した。
何故だ。
何故この少年が自分のことを覚えているのだ!
焦って、焦って――――納得。
違う。
これは劉備の記憶ではない。
金眼の記憶だ。
劉一族の血に受け継がれていく金眼の力。
その力が記憶していたのだ。
嗚呼、なんと腹立たしい。
全身が震えだした。
これは恐怖だけではない。怒りもあった。
けれども、泉沈は劉備には敵わない。何をしたとて返り討ちに遭うに決まっているのだ。
「泉沈。僕はね、関羽と幽谷を取り戻したいんだ」
「……むり、だろ」
「無理じゃないよ。だって、その為に君と一緒にいるんだから」
だから仲良くしよう。
そっと耳元に口を寄せて、劉備は囁いた。
遠い昔に捨てた、忌まわしいその名を。
‡‡‡
曹操の行動の真意が見えない。
命辛々徐州を出た蘇双と趙雲は、切り立った崖を行きながら徐州でのことを思い返していた。
関羽と共に劉備や他の猫族を捜そうとした矢先だった。
曹操がふらりと現れて本陣に幽谷がいるから様子を見てこいと関羽を戻らせたかと思えば、彼らに刃を向けてきたのだ。
その時の彼は、何処か熱にでも浮かされたような、心ここに在らずといった風であった。
しかし攻撃には容赦が一切無く、痛めつけられた身体の蘇双を趙雲が庇って、何とか徐州を脱出出来たのだった。
劉備や他の猫族が、まだ徐州にいるかもしれないと言うのに。
「曹操のヤツ、いきなりボクらを殺そうとして、そんなにボクらが邪魔なの?」
「……他の猫族とも結局会えないまま徐州を出てきてしまったな…」
悔しそうに呻く趙雲に、蘇双は眼を伏せた。
ややあって開く。
問題は、これからどうするかだ。
このまま徐州に戻って劉備達を捜そうとしても無駄だろう。また命を狙われる。
かと言って、幽州は論外。公孫賛が病没し、その跡を継いだ公孫越は猫族には排他的だ。
ここは、曹操に敵対する勢力を頼るのが安全ではある。
敵対と言えば、真っ先に思い浮かぶのは冀州の袁紹。
彼ならば或(ある)いは――――。
そこで、趙雲は大剣を手にした。
後方を振り返り大音声を上げた。
「そこにいるのは誰だ!!」
怒声に飛び出してきたのは白と黒の影。
二人は顎を落とした。
「劉備殿、それに……泉沈」
泉沈は舌打ちして二人を睨んでくる。
蘇双も、牢屋でのことから短剣を持って泉沈に敵意を向けた。
「良くもまあ、ボクらの前に出て来れたね。幽谷をあんな風にしておいて」
「別に良いじゃん。あの程度で死ぬような柔な身体をしてないよ。道具が壊れやすかったら話にならないだろ」
「幽谷は道具じゃない。ボク達の仲間だ」
「仲間ぁ?」泉沈は失笑した。高らかな笑声が鼓膜を叩く。
止んだかと思えばきっと蘇双を睨めつけた。憎悪一色に染まった金と黒の双眸は、並の人間など簡単に怯ませてしまう。
「お前らの仲間意識程、薄っぺらいものは無いよ。良くもまあ軽々しく言えるもんだ」
「何を、」
「待て、蘇双。まずは劉備殿を」
趙雲が蘇双を制し、大剣を収めた。劉備の前に立って屈み、顔を覗き込む。
「ともかく、無事で良かった。劉備殿」
「あのね、泉沈がいたからさびしくなかったんだよ」
無邪気な笑顔にほっとする。
趙雲は劉備の頭を撫でて泉沈を呼んだ。
「劉備殿と共にいてくれてありがとう」
泉沈は眉根を寄せた。
「君馬鹿じゃないの? そいつから聞いてない訳? 徐州城の牢で僕が何をしたか」
それは聞いている。
だが、それとこれは話が別だ。今は戦える泉沈がいたからこそ、劉備は無事だったのだ。
趙雲はそのことに対して、純粋に感謝をしただけだ。
そう言うと、彼は下手物(げてもの)を見るかのような目で趙雲を見下ろしてきた。
「……意味分かんないんだけど。君頭おかしいんじゃないの?」
「それを言うなら、今まで劉備殿と共にいたお前も同じなんじゃないのか」
「はあ? 同じな訳無いじゃん」
僕は人間も猫族も大嫌いだ。
同じとか気持ち悪い。
泉沈は心底嫌そうに、そう言った。
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