違う。
 あたしは幽谷なんて人じゃない。
 あたしは犀華だ。

 確かに、目や髪の色が違うけれど、それを除けば自分の身体ではないか!

 あたしは犀華。幽谷の偽者じゃない!

 気付けば部屋はぐちゃぐちゃだった。
 犀華は手にした匕首を見下ろし、ぎりっと歯軋りをした。
 我を忘れて部屋を荒らしてしまったらしい。これで一体何度目だろうか。
 今は恒浪牙も犀煉も何処かに行っていて止める者がいなかった為に、今回の荒れようは凄まじい。

 犀華は匕首を投げ捨てて寝台に腰を下ろした。両手で顔を覆い、長々と吐息を漏らした。


「あたしは……犀華なのに……っ!」


 誰もが犀華を《偽者》のように見る。
 犀華から幽谷を探し出そうとする。
 誰も、誰も犀華を見ようとしてくれない。

 それが一番顕著なのは関羽だ。
 彼女は犀華を見る度に目が期待に輝き、そしてすぐに暗く沈む。まるで犀華が悪いかのように、彼女は犀華の目の前で落胆をする。

 犀華は関羽が恐ろしい。
 出来れば接触はしたくない。
 けれども、恒浪牙が部屋に籠もりきりなのは駄目だと言う。一日に少しくらいは歩いた方が良いと言われてしまったら、従わない訳にはいかない。兄や恒浪牙がついてきてくれるのは、ありがたかった。

 昨日城から出たいと恒浪牙に言ってみたけれど、それだけは偉い人が許してくれないからと諭されてしまった。
 この城の偉い人――――曹操。
 彼は自分の目に届く場所に犀華達を置いておきたいらしい。

 恒浪牙にも犀煉にも、曹操に何かを聞かれても絶対に答えるな、分からないと言えば良いとキツく言われた。
 それに、犀煉と一緒に城を歩いていた時一目見たことがあるが、彼からは不穏な何かを感じた。近付いてはいけないような、危機感にも似たモノだ。

 だから、犀華なりに接触を避けるようにはしている。

 犀華にとって、この城は安らぎなどとは程遠い場所だった。いつもいつも気を張ってばかりで、周囲を警戒するのが普通になっている。犀煉の傍でさえ、だ。
 ぞわぞわと落ち着かない心中を持て余し、彼女は近くにあった調度品を蹴りつけた。しかし、収まらない。


「あたしは犀華なのにどうしてあたしが偽者なのよ!!」


 叫んでも吐き出せない憤りは、何にぶつければ良いのだろうか。
 髪に指を通し、何を思ったかぎゅっと掴んで思い切り引き抜く。手を開けばはらはらと大量の髪が落ちた。嗚呼、髪が抜けた場所が痛い。
 痛い。
 痛いのは自分だ。幽谷じゃない。
 あたしは、幽谷じゃない。


「あいつの方が――――幽谷があたしの偽者だったんじゃない……!」


 苦しげに漏れた声は、微かに震え空気に溶け込んでいった。



‡‡‡




 夜。
 関羽は私室を抜け出して犀華の部屋を訪れた。

 曹操に部屋を出てはいけないと言われたけれど、草兵の言葉がどうしても気にかかって犀華の様子を確認しておきたかったのだ。

 曹操は、おかしい。
 関羽の武を求めてこの軍に入れた筈だのに、彼女から武を奪い戦うことを禁じた。
 ただ、想いを通じただけ。たったそれだけで扱いがこうも変わるものだろうか?

 何となく不安定な気がして……怖いと思えてしまう。


「抜け出したことがバレたら……やっぱり怒られてしまうわよね」


 早く戻らなくては。
 確認するだけ。すぐに戻れば良いの。
 そう自身に言い聞かせ関羽は扉の向こうに声をかけた。


「犀華。関羽よ。扉を開けてもらえないかしら」


 ややあって、扉が開かれる。

 中から現れたのは頬をべったりと血で汚した犀華だった。
 ぎょっとして思わず手を伸ばすと避けられた。


「触らないで」


 強く拒絶される。
 まるで敵を見るようなキツい眼差しに、まるで幽谷が自分を拒絶しているような錯覚に襲われた。
 けれども、乱れる心中を抑え込み、関羽は犀華に笑いかけた。

――――彼女は犀華。幽谷ではないのだと必死に言い聞かせて。


「兵士から、あなたの部屋から暴れるような音がするって聞いて、心配になって来たの。わたしに何か出来ることがあるなら――――」

「だったらあたしの前から消えてちょうだい。それくらいなら簡単でしょう」

「え……」


 ばたん。
 扉が乱暴に閉めきられてしまう。

 待って――――咽から出かけた言葉は声にならなかった。
 関羽は暫く扉の前に立っていたが、結局は諦めて悄然(しょうぜん)と元来た道を戻り始めた。



――――それを、後ろから眺めている影が一つ。

 犀煉である。

 彼は関羽の背中を睨むように強く見据え、彼女が角を曲がったところで部屋に入っていった。



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