分からない。
 分からない
 分からない。

 幽谷に何が起こっているのか。
 恒浪牙と犀華の関係。
 犀華が犀煉のことを兄と呼んだこと。

 何もかもが分からない!
 関羽は泣きそうな顔をして陣屋の隅に佇んでいた。

 恒浪牙に拒まれた時、胸を突かれるように痛かった。
 確かに自分は幽谷離れをしなければならないと、そう思っていた。
 でもそれは彼女に負担をかけたくなかったからだ。

 幽谷に――――無二の親友に側にいて欲しいという思いはしっかりとある。


『あなたがいるべきは、ここではないでしょう?』


 幽谷に諭された時、自分の心の奥底は嫌だと叫んだ。
 幽谷が自分の手から飛び降りてしまうことに強い恐怖を抱いた。

 わたしは本当に欲張りなのだろうか?
 恒浪牙のやんわりとした言葉が胸に突き刺さったまま、痼(しこ)りと化す。
 今まで一緒にいたのに、もう関羽には幽谷のことが分からない。
 不安と寂寥(せきりょう)に身体が引き裂かれそう。


「幽谷……わたし、は」


 あなたの親友よね?
 それで、良いのよね?
 関羽の軋んだ声が幽谷に届く筈もなく。
 陣屋の喧噪に掻き消されてしまった。

 関羽はふらりと歩き出した。
 曹操……曹操の側なら、少しは落ち着くかもしれない。
 猫族のことは任せろと言っていたからそのことについてもちゃんと聞いておきたいし、彼に相談すれば、幽谷のことも何とかなるかもしれない――――いや、何とかして欲しかった。

 本陣の中を歩いて曹操の姿を探すと、不意に何処からか関羽を呼ぶ声が聞こえた。
 足を止めてそちらに向き直ればそれは曹操で、大股に関羽へと近付いてくる。

 彼の姿を見た瞬間、ほうと吐息が漏れた。不安が、ほんの少し抱け薄らいだ気がした。

 曹操は関羽の前に立つと、そっと彼女に微笑みかけた。


「どうした、そのように浮かない顔をして」

「曹操……猫族はどうだった? 劉備の行方は分かった?」


 問いかけると、曹操は瞳を陰らせる。

 それを見、関羽は見つからなかったのだと思い込む。

 関羽が下邱の町に入った時、中にいたのは趙雲と満身創痍の蘇双だけだった。
 蘇双が言うには、自分は貂蝉に気絶させられて、つい先程恒浪牙と名乗る男に起こされた時にはすでに劉備の姿は無く、恒浪牙が探しに出てくれたそうだ。

 勿論関羽も劉備を探しに行こうとした。
 けれども折良く現れた曹操が、劉備は他の猫族と共々兵士に探させようと言ってくれて、幽谷の様子を見ていてくれと頼まれたのだった。

 それで犀煉と一緒に戻ってきたら、幽谷は幽谷でなくなっていて。
 これまでのことを思い出すだけでも関羽は自分は孤独になってしまったかのような感覚に襲われた。

 曹操はそっと関羽の肩を抱き寄せ、労るように背中を撫でた。
 彼の胸板に顔を寄せ、関羽は呟く。


「劉備も、幽谷も、猫族の皆も、大丈夫なのかしら……」

「……」


 曹操の手が一瞬だけ止まった。

 彼は関羽を離すと幽谷の様子を訊ねた。

 関羽は素直に幽谷の状況、恒浪牙の言葉を話す。そうして、「わたしも幽谷の状態が知りたいのだけれど」と縋るように最後に付け加えた。
 曹操は難しい顔をして腕組みし、頷いた。


「分かった。幽谷については後程処遇について考えよう。あの薬売り――――いや、地仙だったか。無理矢理にでも話を聞く」


 関羽は吐息を漏らした。

 曹操は彼女の肩を撫で、ふと声を顰めて「ところで、」と。


「……お前は、人間と十三支の混血なのか?」


 関羽は首を傾けた。


「え? どうしたの急に。ええ、そうよ。わたしは猫族と人間の混血よ」

「…………そうか」

「それがどうかしたの?」

「いや、何でもない。私はこれから兵士達に撤退の指示を出さねばならぬ。幽谷達のことは後になるが、許してくれ。恒浪牙達が姿を消さぬよう、気を付けて――――」

「――――ああ、ご心配には及びませんよ。私達は暫く幽谷の側にいるつもりですから」


 唐突に会話に入り込んできた第三者の声に、関羽はぎょっと身体を跳ねさせた。

 この柔らかな声は恒浪牙だ。
 振り返れば彼が拱手(きょうしゅ)していた。
 いつの間に、いつからそこにいたのか分からなかった。

 彼は顔を上げて微笑んだ。けれど、目だけが笑っていない。


「それと、申し訳ありませんが。私達はあなた方に如何な方法で問われても、幽谷のことを詳しく話すつもりは毛頭もございませぬ。曹操様とて、関羽さんがこれ以上幽谷の事情に入り込んでいくことは望まぬ筈でございましょう。であれば、無理に事情を訊いてくる必要も無い。……ああ、案じずとも、彼女の存在が軍に悪影響を来すことは、あなた方が《余計なこと》をせぬ限りはありません」

「つまりは、幽谷のことは何も触れるな、と」

「そういうことです。勿論、私はただ世話になるつもりはございませぬ。あなたの軍に滞在する間は、薬を無償で提供致しましょう。効果の程は、兵士の方々や夏侯惇将軍も保証して下さいます。犀煉については、……まあ、私からお願いして斥候として働いてもらいましょう」


 恒浪牙は曹操の返答を待たなかった。最初から了承しか選択肢は無いようだ。
 「幽谷の様子を見ていますので」と微笑みを残して戻っていく恒浪牙を、曹操は不快そうに睨んだ。

 地仙、恒浪牙。
 天仙の呂布に力を認めさせる程の実力の持ち主である彼には、曹操も扱いに悩んでいるようだ。舌打ちして身を翻した。


「関羽。恒浪牙から目を離すな。怪しい動きをした時には報せろ。分かったな」

「え、ええ……」


 関羽はそれぞれ別方向へ歩いていく曹操と恒浪牙を交互に見やり、やがて表情を引き締めて恒浪牙を追いかけて走り出した。



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