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曹操軍の本陣に入った直後、恒浪牙は犀煉に襲われた。
本気で殺すつもりだった彼の匕首は寸分違わず恒浪牙の咽に向かって突き出された。
刺突を紙一重で避けた恒浪牙は後頭部を掻きながら犀煉に待ったをかける。
「ちょっと、何で私が襲われるんだい。私は何もしていないだろう?」
そこで、動きを止めた犀煉の眉がぴくりと動いた。
「……何もしていない?」
では、これは何だ。
犀煉が親指を立てて背後を指差した。
そちらには関羽と夏侯淵がいて、その後ろには幽谷、が――――。
「――――あっ」
声を漏らした。
途端、ざっと青ざめる。
幽谷の顔つきは、彼女のそれではなかった。不安そうに犀煉の背中を見つめる彼女は、見るも明らかに別人格で。
頭痛を覚えずにはいられなかった。
これは予想外だ。
あの時しっかりと封印していたから二度と無いと思っていたのに、今出てきてしまった。
道理で犀煉が恒浪牙を殺そうとする訳だ。
「うん……すまなかった、犀煉」
恒浪牙は素直に謝罪した。
しかし犀煉は舌打ちするだけだ。匕首は収めたものの、未だに恒浪牙を突き刺すような鋭い眼光はそのままだ。これは、言葉を間違えればその場で攻撃される。死にはしないが、痛いのは勘弁願いたい。
苦笑を浮かべつつ、幽谷――――否、犀華に話しかけた。
「こんにちは。私のこと、覚えておいででしょうか」
犀華は恒浪牙を胡乱げに睨み、瞠目した。
「あ、あなた、確か兄様が連れてきてくれたお医者様……」
「ええ。恒浪牙と申します。あの時は犀煉が名乗らせてくれませんで、本当に失礼しました」
会話をしながら、彼女の手を取る。脈を計りながら身体の状態を探った。
肉体の様子は良好だ。
ただ、幽谷の精神が犀華に追いやられて眠っている。これは、暫くは目覚めない。
今までの状態を思えば不安定なのは仕方がない。
けれどもこうも毎度毎度恒浪牙の予想から外れてしまうのは困る。対処が遅れてしまうではないか。
犀華の意識を無理に押し込めようとすれば幽谷ではなく潜在意識を引きずり出してしまうかもしれない。
彼女らの為にも、もう少し状態を観察して詳しく調べたかった。
以前彼女を診察しているから、犀華はすぐに警戒を解いてくれた。脈を計りながら考え込む恒浪牙の様子に怪しむ様子は見られなかった。
「お身体は何ともありませんか」
「少し怠(だる)いです」
「そうですか……なら、犀煉。彼女は安静に寝かせておきましょう。安定するまで、私が看ますから。あなたにだけ、このことを詳しくご説明致します」
「あ、あの、わたしも……」
幽谷の身体のことだから、自分も聞いておきたいのだろう。
関羽が口を挟んだのに、恒浪牙は眦を下げて彼女の肩を叩いた。
「申し訳ありませんが、あなた達には関係の無いことですので。お話しすることはございません」
「え……」
「もうあなたに《彼女》は必要無いのでしょう? それに、深く愛している殿方がおられるのでしたら、あまり彼女にくっついておくべきではない。あなたの愛した方は、どうやらそれが許せない性格のようですから。あなたはよく見えすぎていて、見えなさすぎる。利点は何処かで欠点となります。もう少し、周りのことを考えてみなさい」
恒浪牙から見れば彼女は欲は薄い方なのに欲張りだ。
何もかもを放したくない。何かを切り捨てることを激しく嫌悪し、恐怖する。
それは決して悪いことではない。だが、その《何か》のどれもが大事過ぎて優先順位を決められないというのは、曹操が許さないだろう。
猫族も大事に、幽谷も大事に、曹操も大事に。
猫族が、劉備が危険に晒されれば彼女は何度だって助けに向かう。曹操に逆らってでも駆けつける。
その逆も然りだ。
幽谷は――――彼女にとっては側にいるのが《当たり前》。
一度切り離そうとした関羽は、自覚無しに幽谷の存在を求める。友として、同じ道を歩いて自分を支えて欲しい。そして、幽谷の将来を一緒に考えていく、人として在れるよう一緒に頑張っていく、その約束も果たしたい――――その思いは全て、完全なる無意識の領域にあった。彼女は、抑え込んだつもりでいるだけなのだ。
曹操という男は孤高に見えて意外と不安定だ。関羽の行動一つで脆く崩れてしまうこともある。
曹操の過去は知らぬが、彼が《純血の人間》でないことは漠然と分かっていた。
彼はきっと、関羽の大事なものが自分だけでなければ気が済まない。関羽の心が向くその全てを奪い尽くすだろう。そうするだけの力が、今の彼には備われつつあった。
その時、矛先は勿論幽谷にも向けられる。いや、一番先に狙われるのは彼女だ。
痛めつけられた身体は、潜在意識が乗っ取りやすい。乗っ取れば、自己治癒能力が格段と上がるので、些末な損傷など瞬く間に治してしまおう。
問題は、その潜在意識の気難しすぎる気性だ。
あれは己の使う身体を痛めつけた人間を許しはしないだろう。今まで気に食わない存在は天仙ですら全て殺してきた程の性格だ、曹操や他の人間も真っ当な死に方はさせてもらえない。
ことごとく覚醒を邪魔してきた自分や犀煉も、危うい。
関羽は、彼女自身の知らぬところで自分達にとっての危険な爆弾を抱えていた。
あまり曹操の近くで幽谷と関羽を側にいさせるべきではない。
幽谷にも、人格が戻ってきた時にでもキツく言っておいた方が良いだろう。こればかりは彼女がどのように思ったとしても尊重は出来ない。
「さあ、じきに曹操殿もお戻りになるでしょう。お行きなさい。あなたがいるべきはもう、違う場所です」
「あ……」
やんわりと、泣きそうな関羽の背中を叩いて恒浪牙は犀煉を呼んだ。そうしながら夏侯淵に後で夏侯惇の様子を教えて欲しいと伝え、歩き出す。
犀煉は犀華の腕を掴みその身体を労りながら彼に続いた。幽谷とは大きく違う態度だ。
犀華も、犀煉がいるだけで表情が穏やか。暫くは彼と共にいさせた方が精神状態も安定する筈だ。
幽谷がいつ出てこられるか分からない以上は犀煉についてもらおう。
恒浪牙は肩越しに振り返り、懐かしげに、そして悲しげに目を細めるのだった。
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