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その自我は、何の為に生まれたのだろうか?
それは要らぬものだ。
在って良い筈がない。
ならば何故、消えない?
何故、消せない?
『嗚呼、なんと煩(わずら)わしいことか』
その声は、間違いなく《自分》の声だ。
けれど、どうしてだろうか。
聞き覚えが全く無い。
‡‡‡
幽谷は天幕に寝かされていた。
ゆっくりと上体を起こし、ぼんやりと空を見つめる。
――――夢を、見ていた。
真っ白な空間で、やたら自我がはっきりとしているのにこのまま存在して良いのか不安を感じずにはいられなかった。
自分の姿を見ることすら恐ろしく、自分を《幽谷》と認識することもいけないことのように感じて……。
空間に響いたあの声こそが、その空間に在って良いように思えた。
女性で、鈴の音の余韻を引く凛としたものだ。思わず聞き惚れる程の、美しい声だった。
あの声は……あの声が、恒浪牙の言う潜在意識?
思っていたものとは違っていた。泉沈のように、高低の二重に重なっているのかと思っていたのだが、どうも違うようだ。
幽谷はそこで、右腕に触れた。
そして、息を詰まらせる。
――――堅い。
いつの間にか消えていた鱗に驚いたのは、恒浪牙と共に戦場を突破している時のこと。
恒浪牙が何かをしたと無理矢理に納得させたけれど、この感触が否定する。
袖を捲れば、懐かしい色合いの鱗はすでに肘を越えるまでに至っていた。
砂嵐という器に魂が移動していた為、一時的に消えていただけだったのか……。
落胆。
幽谷は袖を落として溜息をついた。
恒浪牙に鱗をどうにか出来ないか相談してみようと思った。消えるとまでは行かないまでも、せめて進行を止めることくらいは願いたい。
服の上から右腕を撫でて幽谷はふと右に視線をやった。
そこには、自分と同様に寝かされた夏侯惇の姿がある。衣服に血は付着しているものの寝顔は穏やかだ。
左目は処置が終わっている。真っ白な包帯で覆われていた。
その左目を、《どれ》がやったのか、幽谷にも分からない。
けれど砂嵐や自分がやったと認識出来るのもまた事実。いや、むしろ関羽達にしてみればあれは砂嵐の暴走だ。
砂嵐と自分の関係を、関羽達に話すべきだろうか。その上で、夏侯惇に何をしたのか説明をする――――出来る、か?
関羽にも話さずにいて、新しい使命を果たす為彼女の傍を離れるという選択肢もある。
しかし、使命のことを思うと、呂布の――――幽谷が劉備を殺すという不吉な言葉が頭に引っかかった。
確かに劉備は、幽谷が目覚めた時常時の彼とはまるで正反対だった。そも、優しい劉備が貂蝉をあんな風に残酷に殺せる筈がないのだ。
彼の身に何か遭った?
何故、四霊が彼を殺さなければならない?
劉備に関して他の猫族とは違うことと言えば、成長の速度だ。
今年で十六という齢の割には彼は幼い。
まるで何かに成熟を阻まれているように――――。
「……いえ、では偃月の日の劉備様はどうなるの……?」
まだ洛陽にいた頃。
曹操の屋敷に軟禁されていた劉備が、たった一度だけ大人びていたことがあった。あれは偃月の夜のことだった。
あれは年相応に感じられた。何かに成長を阻まれているというのなら、彼はどうなる? 彼もまた劉備だ。それは間違い無い。
もしや多重人格?
……いや、違う気がする。
恒浪牙を待って話を聞くのが一番手っ取り早いのだけれど、どうしても気になって仕方がない。
少し外を歩けば気も紛れるだろうかと立ち上がろうとした幽谷はしかし、直後に夏侯惇の発した呻きに動きを止めた。
「しゃ……らん……っ」
顔が歪む。
砂嵐に左目を負傷させられたその時のことを、夢の中でも見ている?
幽谷は寸陰沈黙した後、彼の傍に膝をついた。
取り敢えず起こそうと手を伸ばす。
が、その手を捕まれたのだ。
「!」
「く……っ」
夏侯惇の手は思いの外力が強い。苦痛に耐える為に異様な力が込められていた。みしみしと骨が軋んでいた。折れはしないだろうが、このまま放置すれば確実に痣が出来る。
幽谷はもう片方の手で肩を揺すった。
「起きて下さいまし」
……起きない。
「夏侯惇殿、起きて下さいまし」
瞼が震えた。
うっすら開いた隻眼は焦点が定まらない。幽谷の方へ黒目が移動するのだけれど、彼女を捉えているのかと言えば否だ。
意識もはっきりとしていない。夢と現(はざま)の狭間をたゆたっているようだ。
そんな彼は、幽谷を別の人物に間違えた。
「砂嵐……?」
何処をどう見たらそうなるんですか。
思わず出かけた言葉は即座に呑み込んだ。
しかし隻眼で焦点が合っていないとは言えど幽谷と砂嵐は髪の色も長さも違う。その上、砂嵐が眼帯をしていたが今の幽谷は着用していない。
……そこまで《砂嵐》を気にかけるとは、少々、いや非常に意外であった。
幽谷は思案し、夏侯惇の隻眼を手で覆った。その手に夏侯惇が触れた。
「……今少し、お休み下さい。夏侯惇様。じきに義兄が傷を診に参りますので」
なるべく砂嵐の声音に近付けて、諭す。……自分で起こしておいて難だが。
夏侯惇は大人しく力を抜いた。
その隙に幽谷は掴まれた腕をそっと引く。すんなりと抜けた。手首にはくっきりと手形が付いてしまっていた。
夏侯惇が再び寝入ったのを確認して、幽谷は手を離した。
ほう、と細く吐息を漏らす。握られた手首をさすった。
――――それから暫く。彼女は夏侯惇の寝顔を見下ろしていた。
そして紅唇を薄く開いて、
「……ごめんなさい」
それは、どちらからの謝罪だったのか。
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