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血が滴り落ちる。
赤い血と共に流れ落ちていくのは己の命。
彼女は己が死んでいくというその事実を受け入れられなかった。
けれど同時に、身を震わす程の喜びが、その内にはあった。
‡‡‡
幽谷は匕首を払った。血が飛び散って地面に斑点を描く。
彼女の身体は真っ赤だ。所々を深く斬られ、止め処無く血を流しては衣服を汚した。
そんな彼女に対し、目の前に座り込む呂布は、心臓を貫かれたのみ。しかし流れ出る血の量は幽谷程に多かった。
幽谷がその場に座り込むと、関羽が駆け寄ってその身体を労(いたわ)った。
けれど、幽谷はそれをやんわりと拒む。
関羽に遅れて歩み寄ってきた恒浪牙の手を借り、よろめきながら立ち上がった彼女は、茫然と空を仰ぐ呂布を見下ろした。
幽谷がその名を呼べば、たがが外れたように笑い出す。
「うふ……うふふふふふ、うふふふふふふふふふふふ……っ」
「呂布……?」
呂布はふらりと立ち上がると、まろびつつも幽谷に抱きついた。
幽谷は振り払わない。呂布の命が風前の灯火だと言うことは、見るも明らかである。引き剥がそうとする関羽を目で制し、呂布を静かに見下ろした。
彼女の目は、焦点がまるで合っていなかった。狂気に彩られた不吉で妖艶な笑顔を幽谷に向けながら、掠れた声を絞り出した。
「饕餮ちゃん……貴女達が、これで役目が終わる(かいほうされる)と思っているの?」
幽谷は眉根を寄せた。
「……どういうことです?」
「あの白い猫ちゃん――――劉備ちゃんを……見たでしょう? 彼が今どんなことになっているか、そこの地仙に訊いてみなさいな……!」
四霊など、ただの都合の良い道具。
厄介事を自分達の代わりに片付けさせる駒。
「貴女達はもう、劉備ちゃんがいる限り……消えることは無いのですわ」
黒猫ちゃんがそうしてしまったのですから。
呂布は哄笑(こうしょう)する。ずるりと地面に崩れてもなお、笑っている。ごぼりと血を吐いてもなお、笑声は止まなかった。
「ああ……ああ、残念ですわ……劉備ちゃんを、饕餮ちゃん達が殺すその瞬間を見れない、なんて……っ!」
「……私が、劉備様を……?」
「ふふふ……黒猫ちゃんも……哀れ、ですわねぇ」
呂布はうっとりと天を仰ぐ。
幽谷は彼女の言葉を反芻(はんすう)しながら彼女を見下ろす。
私が、劉備様を殺す?
いや有り得ない。そんなこと起こらない。起こる筈がない。
脳裏に浮かんだのは、返り血に染まった劉備。
貂蝉を殺した、劉備。
……ぞわり。
「……っ、呂布、それは一体――――」
「呂布! 劉備は、劉備は何処にいるの!?」
横合いから入り込んだのは関羽である。
劉備の名前に反応したのだろう彼女は呂布の身体を抱き抱え、必死の形相で彼女を質(ただ)す。
呂布は弱々しく笑うだけだ。彼女にはもう、喋る力は残っていないだろう。
関羽は幽谷を見上げて劉備の所在を訊ねた。
幽谷がそれに答えて城の方を見やれば、関羽は偃月刀を抱えて駆け出した。
「劉備! 待ってて、すぐ行くわ!!」
「関羽!」
曹操が声を張り上げた。
しかし、彼の声も、伸ばした手も、彼女には届かず。
まるで置いて行かれた子供のような顔で彼は小さくなっていく関羽を見つめる。
関羽にとって、劉備も猫族も、切り捨てられない大事な存在だ。
彼女の行動は至極当然のこと。
だが、この男は、それを許すのだろうか。
つかの間曹操の様子を窺っていた幽谷は、ふと犀煉に呼ばれて視線を逸らした。
すでに腕を戻した彼は眉間に深い皺を刻んで幽谷に歩み寄った。
「猫族の長が、どうした」
幽谷は緩くかぶりを振った。
「私にも良く分からないわ。ただ、いつもの劉備様とは様子が違っていた」
彼が人を殺したとは、言わずに置いた。まだ、信じられない自分がいたからだ。
「私も劉備様達の様子を見てくるわ。関羽様も、心配だから」
足を踏み出した直後である。
「……っ!」
足から力が抜けた。
崩れた身体を恒浪牙が支えてくれた。
恒浪牙は幽谷の額に手を当てて暫し考え込んだ後、眉間に皺を寄せた。
「今の戦いで、魂と身体にズレが生じてしまったようです。肉体の損傷も激しい。関羽さんのことは犀煉に頼みますから、あなたは休んだ方がよろしいでしょう」
そういう訳には行かない。
呂布の死はすぐに軍全体に伝えられるであろう。戦意を失って兵士が逃げ出すのも時間の問題ではある。
けども、危険なのは変わらないのだ。
関羽達の安全が第一だ。
力の上手く込められぬ己の足に舌打ちした直後、恒浪牙に頭を撫でられた。
「犀煉は、関羽さんにも少々甘いところがありますから。自覚無く、ですが。大丈夫ですよ。今は関羽さんや劉備さんの為に、身体を休めなさい。あなたの身体が万全の状態になってから、呂布の言っていたことを詳しく説明しましょう」
恒浪牙はそこで犀煉を呼んだ。
すると、舌打ち。
咎めるように恒浪牙が再び名を呼んだ。
犀煉は嫌そうに眉根を寄せながらも異論は口にせず、衣を翻して関羽の向かった方へと大股に歩き出した。
……彼に、任せても良いのだろうか。いくら彼が呂布に反旗を翻し、四霊の役目を果たそうとしたとて……。
幽谷の胸には、まだ、不安が残っていた。
それを察したらしい恒浪牙は、「大丈夫ですよ」と笑う。
「あなたは、一刻も早く身体を整えた方が良い。呂布の言葉を考えるのも、他の色んなことも、今は忘れなさい」
恒浪牙は、呂布の言っていた意味を全て理解したのか。
朗らかに微笑む地仙は、何処か憐れむような眼差しをしていた。
彼に額を撫でられれば、途端に意識が遠退いていく。
恒浪牙に色んなことを訊ねたいのに、訊ねなければならないのに、彼からけしかけられた睡魔が邪魔をする――――。
暗転。
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