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 呂布を強く見据える彼女の後ろに、そっと立った者が在る。

 恒浪牙だ。
 共に戦うのではない。
 彼は確認に来ただけだ。


「本当に良いんですか? 呂布を生かせば、あなたは消えなくて済むんですよ」


 幽谷はそっと目を細め、やおら頷く。

 呂布がこのまま生きていれば、関羽をしつこく狙うであろう。幽谷は猫族のことを任されたし、関羽自身が曹操の傍にいることを選んだのだから関羽の傍にいることは出来ない。
 その曹操が呂布に敗れれば、関羽は呂布のものにされてしまう。

 そうなるよりは、何千倍もましだ。
 この忠義、この武、関羽と、彼女の大事なもの全てに捧げている。
 消えてしまうのなら、それでも構わない。彼らに危険が及ぶよりずっと良い。

 そうはっきりと告げると、恒浪牙は鷹揚に頷いた。


「分かりました。では、……先程からあなたの気にしている夏侯惇将軍を見ておりますね」


 あれは砂嵐のしたことでも、あなたのしたことでもないのですよ。
 そう言って、彼は幽谷から離れた。

 心の中で、そっと謝罪と謝辞を述べる。
 気にしていたつもりはなかったのだが……態度に出ていたのだろうか。
 恒浪牙を振り返った彼女は気を取り直して匕首を構え直した。

 四霊の使命にようやっと向き合う幽谷の身体は、呂布と戦う意志を持っただけで熱くたぎる。
――――奇異なことである。ただ、己の使命を知っただけであるというのに身体が《喜んでいる》のだ。

 思えば、呂布を同類と感じたのも自分が天仙によって生み出された人形であるからだろう。天仙でも何でもない自分が同類と感じてしまうなんて、今となってはおかしな話だと思う。
 身体が震えていたのも、恒浪牙が以前口にした潜在意識が訴えかけていたことによる。本来の身体の持ち主であるその意識は、《面倒な殺戮》を極度に嫌がっていたのだ。それが震えとなって現れていた。

 あの鱗の生えた手も、結局は自分の一部。

 それを考えると、つくづく四霊という人形(じぶん)は不気味である。
 むしろ消えてしまった方が、関羽に要らぬ迷惑をかけなくて良いのかも知れぬ。

 はっと己を鼻で嘲笑って幽谷は血を蹴った。

 呂布に肉迫して細い首に向け匕首を振るう。だが幽谷はそれで容易く穫れるとは思っていない。

 戦斧に弾かれた。その速さからは重さを全く感じさせない。 

 背後に跳躍して一閃を避けると今度は呂布が幽谷に躍り掛かった。

 懐から取り出した札を投げつけた。飛びながらに発火したそれは呂布の肩、太腿、首元に張り付く。
 しかし、すぐに燃え尽きて無くなった。肌には呂布自身が引っ掻いた痕があるだけで、煤すら残らなかった。


「さあさあ饕餮ちゃん、もっと、もっと刺激的な戦いを下さいな!!」


 喜色しか無い弾んだ声音に幽谷は口角を弛めた。


「……言われずとも、あなたにとって最高の最期を差し上げましょう」


 泉沈、と幽谷はその名を口にした。
 直後――――。

 呂布の足下から一本の太い鉄の棘が飛び出した!

 呂布はその場から離れた。

 幽谷の傍に、ゆったりと立ったのは泉沈。


『僕が僕でなければ、協力はしなかったよ』

「でなければ、言わないわ」


 ちらりと横目に自身よりも高い身長の青年を見やる。
 本当にこれがあの泉沈なのかと思える程、面影が全く無い。

 それに加えてこの《人格》、穏和過ぎてお世辞にも戦闘向きとは言えないし、呂布に敵うとも思えない。

 どうしてこんな四霊を作ったのか……甚(はなは)だ疑問である。

 ……いや、そんなことはどうでも良いのだ。
 今は何も考えるな。
 使命を全うすることだけを、考えるのだ。

 関羽達のことに至れば、何処かで……未練が、生まれてしまうではないか。


「……ままに協力を頼むから、お願い」


 呂布に視線を戻した幽谷に、泉沈は苦笑して顎を撫でた。


『犀煉の代わりかい。まあ、出た以上は仕方がないもの、分かったよ。でも良いのかい? 最期くらい、主人と共に戦ったって、良いと思うのだけれど。彼女だって、それを望んでいるのでは?』


 幽谷は首を左右に振った。


「あの方は元々戦に出るべきではないお方。人を殺めて良い手ではないから」


 関羽の手は、優しい手だ。
 本来赤黒い血で汚して良い訳がない。
 そして彼女の最も近い場所にいることを許されたのは、己ではなく曹操だ。

 もう問答は終わりだと駆け出した幽谷――――彼女には、泉沈が複雑そうに顔を歪めていることなど知る由も無い。


『……ああ、確かに《妙幻》の性には合わないかな。彼女が苛立つのも、分からないでもない』


 ましてそれが、己の特性によって確定された人格であるのなら、一入(ひとしお)だ。





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