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関羽の悲鳴が空を裂いた。
泉沈の手から落ちる物――――元は娘の身体であった肉塊が崩れる様を誰もが茫然と眺めていた。
……いや、呂布だけは違った。驚いたように口元に手を添えていた彼女は拗ねたように唇を尖らせた。
「黒猫ちゃんったら、砂嵐ちゃんを殺してしまうなんて酷いですわ!」
泉沈は呂布ににっこりと笑いかけた。
彼の顔は、砂嵐の頭を握り潰した時に飛び出した諸々の体液と肉片で汚れてしまっていた。
べしゃりと肉塊を踏み潰して呂布に歩み寄る。
「だってあれがあるから、幽谷のお姉さんの身体から魂が抜けちゃってたんだもん。でもこれで幽谷のお姉さんも無事に起きたんじゃないかな。あのクソ野郎も本当に小癪な真似をするよ」
くすくすと笑う泉沈の目は全く笑っていない。深く激しい怒りを湛えている。
それを見いだした呂布はうっとりと泉沈の頭を撫でた。この姿は嫌いだが、泉沈自体は気に入っているのだ。
肉塊に駆け寄ろうとした関羽を夏侯淵が腕を掴んで引き留める。それがある場所には泉沈がいる。呂布がいる。
二人を庇うように前に立ったのは犀煉だ。何処から取り出したのか、長い片刃の剣を持って呂布と泉沈を睥睨した。
「犀煉ちゃん。ようやっと真面目に役目を果たすことにしたんですの?」
「ああ、そうだな。そろそろお前の汚い面を拝むのも辟易していた」
「汚い……ですって?」
ぴくりと呂布の眉が揺れる。
笑みが消える。彼女を取り巻く空気が、再び真冬のようにきんと凍り付いた。
犀煉は徐(おもむろ)に左目を覆い隠す前髪を耳にかけた。腰を低くして匕首を構えた。
走り出す――――!
‡‡‡
一方、幽谷は一人戦場を駆け抜けていた。
その隣には、情けなく眉尻を下げた恒浪牙がいる。幽谷の俊足にも負けぬ健脚を見せる彼の頬には真っ赤な花が咲いていた。
彼らの間に一体何が遭ったのか――――それは少しばかり時を遡る。
覚醒した幽谷は城の廊下を走っていた折、恒浪牙と遭遇した。
幽谷の姿を見るなり恒浪牙は頭を抱えて砂嵐へ謝罪を繰り返した。
恒浪牙の言う砂嵐とは、幽谷という人格を塗り潰し、別の人格を無理矢理に作り出した上で魂を粗末な器に移した女性の名前だ。とどのつまり、砂嵐は幽谷と全く違う人格でありながら、全く同じ魂の同一人物なのであった。
故に、砂嵐の記憶やその折々の感情も、今幽谷の中にしっかりと残っている。ただし、砂嵐には目覚めた幽谷の記憶は残らなかったようではあるが。
砂嵐の記憶と己の記憶から、何を言うよりも真っ先に彼に平手打ちを見舞った。
そうして、下邱内の呂布軍兵士を殺しつつ戦場に躍り出た。
何故か恒浪牙は彼女を追いかけてきた。城に用事があったのではないかと思って問うたが、今はそれよりも幽谷のことを優先する、と。
最初は何のことなのか分からなかった。
けれど次第に、彼が幽谷の側にいなければならないその理由を身を以て理解する。
魂が、身体にまだ定着していないだけでなく、酷く弱っているのだ。
思えば長期に渡って砂嵐という人形に閉じ込められていた上、この数日幽谷の身体と砂嵐の器を数回行き来した。むしろそれで双方の精神に大きな影響が出ていないのが不思議なくらいである。
気を抜けばすぐにでも眩暈がして倒れてしまいそうになる幽谷を、側で恒浪牙が術で繋ぎ止めてくれる。そうでもしなければ、自我が《流れて》しまいそうだった。
恒浪牙を完全に信用した訳では決してない。むしろ一層警戒しているのだけれど、この状況では彼に頼らざるを得ない。
関羽を守る為には。
砂嵐の記憶の中、関羽は曹操と共に在り、呂布と交戦していた。そして、その際にはっきりと彼女に言ったのだ。
――――曹操の傍にいたい、と。
それに落胆しなかった訳ではない。
けれど、関羽がそう決めてしまったのなら、もう彼女は戻らないだろう。幽谷はそれを知っている。
そして、きっとそのまま自分を――――。
と、考えるのは後回しだ。
今は早急に関羽のもとへ馳せ参じ、呂布を殺さなければならない。
犀煉にも、訊かなければならないことがある。
徐州では訊けなかったこと。
……犀煉と関羽の母親はどのような関係にあるのか。
劉備のことも気がかりだ。
後程改めて話をしてみなければならぬ。
何を為すにも、一刻も早くこの戦を終わらせなければ!
幽谷は恒浪牙を呼び、更に速度を上げた。
「ちょっと! 老体に鞭打つような真似をはしないで下さいよ〜!」
「さっきから持っているその狼牙棒(ろうがぼう)で私以上に兵士を薙ぎ倒していながら何を言っているんです」
この恒浪牙、決して弱くはない。それどころか関羽にも匹敵する程の武の持ち主だろう。
人の良さそうな笑顔をしながら、なんて酷い男だろうか。ややもすれば張遼以上だ。
幽谷は前方にいる呂布軍兵士に柳葉飛刀(りゅうようひとう)を投擲(とうてき)しながら、すぐ近くで敵を狼牙棒で殴り飛ばす恒浪牙を一瞥し、ちっと小さく舌打ちした。
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