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その衝撃は恒浪牙にもしっかりと届いた。
城の中不意に身体を襲った激痛に胸を押さえてその場に座り込んだ彼はちっと舌打ちした。
「泉沈か……まさかあんな形でバレてしまうなんて思わなかったな」
ああ、また犀煉に怒られてしまうではいか。
はあと嘆息して恒浪牙は立ち上がる。
「早いとこ幽谷を探さなければ。きっと彼女を助けようとするだろうからなあ……」
犀煉はそれを阻もうとするだろう。
だが、幽谷はそれには決して従わない。
それが《幽谷》自身が定めた己の道だ。恒浪牙にはそれを止めるつもりなど全くない。曹操に捕らえられた時に一応の忠告はした。その上で関羽のことを最優先とするのなら、それで良い。
「犀煉、私が協力するのはここまでだ」
ここからは、好きにさせてもらうよ。
謝罪を後に添えて、彼は恐らくは戦場にいるであろう犀煉にそう言った。
‡‡‡
頭が重い。
総身が痛い。
思考は何か膜が掛かったように酷く朧気で、記憶も曖昧だった。一瞬自分が何者かも分からなかった。
重い瞼を押し上げると真っ白な少年がこちらを見下ろしている。
焦点も思考も定まると、まだ幼さを濃く残した優しげな風貌の少年の顔も白銀の髪も白を基調とする衣服も――――返り血を浴びていて。
幽谷はぎょっとして上体を起こした。
途端、眩暈に額を押さえる。
「つ……っ」
「大丈夫? 幽谷」
「……っ、はい。少々眩暈を起こしただけですので」
小さな手に背中を支えられつつ、幽谷は彼――――劉備を見やる。
一体何が遭ったというのか。
問おうとして彼の手が視界に端に映った。
疑う。
「劉備、様……? どうして、」
どうして手が血塗れなのですか?
震え掠れた声で問いかけた直後、劉備の口角がくっとつり上がった。
なんて酷薄な笑みだろうか。
これは誰だ。
本当に劉備様なのだろうか。
「りゅう――――」
「ああ、これ? 芥(ごみ)を一つ処理したんだ。ごめんね。やっぱり手を洗った方が良かったかな?」
彼が振り返った先には壁に寄りかかって座る蘇双がいる。だいぶ衰弱しているが、気を失っているだけのようだ。
彼のすぐ側には少女が寝転がっていた。
――――否、少女であった物、だ。
衣服と髪の色から呂布の恋人であった貂蝉であろうことは推測されるが、四肢は多数の切り傷から中身を晒す胴からもぎ取られ、有り得ない方向にひしゃげて……もはや人としての形を留めていない。
これを、本当にこんな小さな身体の少年がやったというのか!
違う。
こんな人知らない。
劉備様の姿なのに、こんなこと言うなんて絶対に無い!
「あなたは、誰、ですか……?」
「僕? 僕は劉備だよ。幽谷の良く知る劉備じゃないか」
そっと頬を撫でるその手に戦慄する。
幽谷は身体を震わせ、目元を和ませる劉備を凝視した。
ずりっと身体を後退させると、彼はふっと悲しげに眦を下げた。
「僕は、関羽や幽谷……猫族を守りたい。だから力を手に入れたんだ。お願い。拒絶しないで?」
「劉備、様」
「関羽は今、何処にいるのかな?」
関羽も助けてあげなくちゃ。
そう優しく言う彼の顔は、言葉を裏切って残酷だ。
かつてのあの純粋な笑顔を浮かべる彼の姿は何処にも見えない。あの幼い彼は何処に行ってしまったというのか。
「関羽様、は……」
……駄目だ。
今の劉備に関羽が曹操と共にいることを教えてはならない。
この《記憶》を彼に話しては――――酷い惨劇が生み出されるような気がした。
「分かり、ません。私は犀煉に気絶させられ、とある地仙に預けられていましたから」
「嘘だよね。幽谷ならそれを知りたいって思うもの」
「お願い」と劉備は小首を傾げて幽谷に顔を寄せてくる。
互いの鼻がぎりぎり掠るくらいの距離で金の瞳が幽谷の瞳を捉える。
幽谷が無言でいると、劉備は不意に何を思ったのか幽谷の顔につけられた眼帯を取り去った。色違いの双眸に満足げに頷いた。
「……やっぱり幽谷の瞳はとても綺麗だね。隠すなんて勿体ない」
くすりと笑って劉備は身体を離した。
「答えなくて良いよ。君は今の僕に戸惑っているだけだもの。答えられないのも仕方がない。そこの芥が言っていたんだ。この徐州に曹操が攻めてきたんだって。猫族の皆も言ってたよ、関羽は曹操に連れて行かれたんじゃないかって」
「……っ」
幽谷が顔色を変える。
駄目だ。
彼を戦場に、関羽のもとに行かせてはならない!
足に力を込めて立ち上がり、扉へと歩いた。
「幽谷?」
「呂布のもとへ、参ります。犀煉に訊かなければならぬことがございます故」
本当はそこに関羽や曹操、泉沈がいる。幽谷にとって重要なのはそれだ。
どうしてそれを知っているのか――――覚えているからだ。
幽谷の記憶ではないのだけれど今では彼女の記憶に取り込まれている。
未だに鈍い思考に緩くかぶりを振る。
すると劉備が前に立った。
「そんな身体で、無茶だ」
「大丈夫です。……劉備様は、蘇双様をお願い致します」
劉備を一人にして良いのか不安はある。
けども彼と共に戦場に出るよりは、ずっとましだろう。
劉備に頭を下げ、彼女は扉を押し開けた。
すると不意に、劉備が幽谷を呼んだ。
「僕も、劉備だよ」
「……」
置いてけぼりにされたような悲しげな笑みを浮かべる劉備に、幽谷は深く頭を下げた。
胸が、小さく痛む。
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