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 また、人が増えた。

 今度は誰だと首を巡らせば、鉄紺の衣に身を包んだ、黒の長髪に赤い片目の青年である。
 匕首を片手にした彼は青年を見、すっと目を細めた。


「……珍しいな。《お前》が表に出てくるとは」


 泉沈。
 泉沈と呼ばれた青年はゆったりとした動作で頭を下げた。その足下の模様は、未だ浮かんだまま。


『あの子には随分と嫌がられたよ。お陰で、今も身体が思うように動かない』

「覚醒した姿になりたがらぬ泉沈が、何故?」


 泉沈は苦笑した。


『先程、大嫌いな地仙にからかわれて、頭に血が上ってしまったんだ。それで、勢いのまま力を解放させてしまったという次第だ。あの子らしいだろう――――と、申し訳ない。僕が悪かったから、八つ当たりはもう止めてくれ。僕は君と違って猫族にも人にも何の感情も抱いていないし、無用な殺生はしたくないんだ』


 途中から、胸を撫でて自身に語りかけるように声を潜めた。
 ……頭がもう追いついていけない。

 しかし、関羽や夏侯惇達はこの青年二人が何者か分かっているようで。


「ちょっと待って犀煉!! 今あなたこの人のこと泉沈って言ったの? 覚醒ってどういうこと?」


 鉄紺の青年は犀煉という名前らしい。
 犀煉は関羽を五月蠅そうに見やると素っ気なく答えた。


「……お前達が知る必要は無いと思うが? 四凶は汚らわしい芥(ごみ)、何も知らぬお前達人間も猫族も、俺達のことなどそれだけの認識で良い」


 その単語に、砂嵐は反応を示した。

 『四凶』
 義兄が自分のことを教えてくれた時に出た言葉だ。

――――この人なら、もしかしたら義兄の言っていた意味を教えてくれるかもしれない、そう思った瞬間であった。

 じくり、と眼帯に隠された右目が疼(うず)いた。
 それは次第に強くなり、砂嵐は思わず眼帯を押さえて身体を折った。
 痒いような痛むような痺れるような、不快でもどかしい感覚に眼帯を外したくなる。

 けども自分の右目……否、双眸が凶兆の証であると義兄は言っていた。自分の双眸がどのようになっているのか分からないし、彼らの前で外すことは躊躇われた。嫌われるのが、疎まれるのが怖い。


「砂嵐……? 右目がどうかしたのか?」

「な、何でも、ありません……っ」


 疼きだけではない。
 胃が痙攣し、何かが食道をせり上がってくる。吐き気にどっと冷や汗が再び噴き出した。
 おかしい。
 どうしてしまったのだろう。

 心無し、全身も熱くなっってきているような気がする。
 どうして、どうして、どうして。

 何かに脳を掴まれるような感覚。
 誰かに意識を持って行かれそうな感覚。
 自分が失われるかのような感覚。

 目が、頭が、手が、足が――――全身が痺れる。


「……ぅ、あ……っ」

「砂嵐!」


 耳元で夏侯惇が叫ぶ。
 されど、それすらも今はとても遠い。

 気持ち悪い。
 痺れる。
 不快だ。



 不愉快だ。

 早く、あれを殺さなければならない。

 早く、役目を終わらせて、

 こんな汚い人の世など立ち去ろうぞ。




 それは自分の思考ではなかった。
 誰かの、別の誰かの思考だった。
 それは闇のように砂嵐の意識を呑み込んでいく。

 何も考えることが出来ない。
 恐怖は無かった。
 ただ、それが至極当然だと感じられた。

 《その存在》こそが、この身体を動かし使命を果たすべきなのだと、心の底で納得する。

――――けれども。
 頭の片隅で歪みを感じた。
 噛み合わない歯のように何かがずれている。決定的に。

 それでは駄目なのだ。

 不完全なまま身体を明け渡すことはしてはならない。
 器は最適な、最高の状態にしておかなければならないのだ。

 でなくば作られた意味が――――。


 どん。


「――――ッ!!」


 肩に衝撃。
 直後に生じた熱と痛みに意識は現実に無理矢理引き戻された。
 右肩を見やれば、そこには深々と匕首が突き刺さっている。


「ぁ……」


 そこから、赤い物が広がっていく。
 それは何だろうか?

 ……ああ、血、か。

 私の血が、出てるんだ。


 あれ?


 私、いつの間に立っていたっけ?


「ちょっと犀煉ちゃん!! わたくしの可愛い砂嵐ちゃんになんてことを!!」

「黙れ。その金切り声を聞くのも飽いた」


 ぼんやりとした思考で、そのまま佇んでいると後ろから肩を掴まれて強く引き寄せられた。
 よろめきながら何とか倒れずに振り返ると、顔を土で汚した関羽が必死そうな顔で砂嵐の顔を覗き込んできた。


「砂嵐、一体どうしたの? あなた今、何をしたの!?」

「な、に……?」


 砂嵐の傷を心配するでもなく、彼女は責めるようにそう問いつめてきた。

 こてんと首を傾げると、彼女の向こう側に倒れる一つの影。
 砂嵐はその光景に茫然とした。


「夏侯、惇、様……?」


 どうして、彼が倒れているの?
 どうして彼の顔の左半分が赤いの?


「砂嵐、あなた一体……」

「わ、たし……」


 私が、したの?
 違う。
 違う。

 そんな筈がない。

 だって私は普通の娘だったじゃない。
 そんな人に、しかも武将の肩に傷なんて負わせられる訳ないじゃない。

 私はただの娘じゃ――――。



『良いかい、砂嵐。よーくお聞き。お前の目はこの世の中ではまったき凶兆であると言われている』



「あ、ぁ……!!」


 し、きょう。
 そうだ、わたしはしきょうなんだ。
 しきょうだから、しきょうだから、しきょうだから、しきょうだから、


「砂ら――――きゃあぁ!?」


 視界から関羽が消え失せた。

 代わりに真っ黒に染まる。
 いや、これは布だ。
 さっきの、泉沈という青年の衣だ。

 ぞわり。
 うなじに痺れるような感覚。

 ゆっくりと、視線を上へと上げた。

 すると――――。


「そこにいたんだ、お姉さん」


 高い声だ。二重ではない。
 金と黒の瞳が、砂嵐の虚ろな顔を映し出した。

 えっと思う間も無く大きな手に顔を掴まれてしまう。


『とどのつまり君達は天帝の都合で作り出された道具でしかない』

『だから四凶は、必ずこの世から消えてしまうんだ』



 脳裏で義兄の声がする。















 ぐしゃ。



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