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 血。
 悲鳴。
 血。
 悲鳴
 血。
 悲鳴。
 血。
 悲鳴
 血。
 悲鳴。
 血。
 悲鳴

 死、死、死、死、死、死、死、死、死、死、死、死、死、死、死、死、死、死――――。


 全身の震えが止まらなかった。
 どうして自分がここに来なくてはならないのか。
 どうして自分が彼女に気に入られてしまったのか。
 この無限地獄のような惨たらしい戦場を、どうして歩かなければならないのか!

 足がもつれそうになると呂布が気遣って引き寄せる。しかしそんな好意は砂嵐の恐怖をより一層強めるだけであった。
 張遼の姿は彼女の傍にはいない。つい先程軍を率いて先へ行ってしまったのだ。呂布は砂嵐の覚束ない足取りに合わせているから他の兵士よりも歩みは遅い。

 呂布は一体何処へ行こうというのか。
 怖い。
 この人の傍にいたくない。
 いたら、心が壊れてしまいそうだ。
 気が狂ってしまいそうだ。
 怖い、怖い、怖い!!

 青ざめ歯をがたがたと鳴らす砂嵐を肩越しに振り返り、呂布はほんのりと頬を赤らめて笑声を漏らした。


「こんなに震えて可愛らしいこと。大丈夫ですわよ、砂嵐ちゃんは、わたくしが守って差し上げますから。貴方は、この戦を存分に楽しみなさいな」


 そんなの無理に決まっている。
 私とあなたの思考は、違う。
 こんな、こんな酷いことを楽しめる訳がないじゃない!
 心が悲鳴を上げる。
 逃げたいと泣き叫ぶ。

 けれど、それをこの魔性は許さないだろう。

 逃げたい。
 逃げたい。
 誰か、義兄さん、関羽さん――――夏侯惇様。


 助けて!!


 はらりと、目尻から流れた涙は頬を伝い、砂嵐の服に染みを作った。

 その折、不意に呂布の周囲で断末魔が上がる。
 ぎょっとして顔を上げると、彼女の向こうに見覚えのある姿があった。

 涙が、また流れた。



‡‡‡




「……これはどういうことですの? 子猫ちゃん」

「呂布!! どうしてあなたが砂嵐と一緒にいるの!?」


 呂布が静かに問いかけた相手は、関羽だった。その隣には牢屋の近くで見た曹操、二人の後ろには夏侯惇と夏侯淵の姿があった。
 彼らは呂布を見てというよりも、砂嵐に驚いている。

 砂嵐はその姿を見てどっと安堵に力が抜けた。

 関羽の問いに呂布は答えない。先程までとは違い、まるで氷のような寒気が彼女の周りに漂っている。
 間近にいる砂嵐はそれが恐ろしい。


「みんな、逃げて! 呂布よ!! ここから先はわたしと曹操が戦うわ!!」

「しかし、薬売りの妹が――――」

「大丈夫、彼女はわたしが助けるわ。だから」

「わ、わかりました! お二人とも、どうかご無事で!!」


 夏侯惇達の後ろに控えていた兵士達は、承伏しかねるような顔をしつつ、それぞれ激励の言葉をかけて足早にその場を立ち去っていく。

 夏侯惇と夏侯淵は周囲を見渡して誰かを捜しているようだ。


「子猫ちゃん、砂嵐ちゃんとも仲良しだったんですのね。――――ああ、いいえ。そんなことは今はどうでも良いですわ。ねぇ、貴女何故猫族といないで曹操なんかと一緒にいるんですの?」


 冷たい空気の正体――――怒気だ。
 呂布は関羽が曹操と一緒にいることに腹を立てていた。

 ひっと咽から悲鳴がこぼれた。


「答え次第では、わたくし…わたくし……貴女を弄り殺してしまうかもしれませんわ!」

「いっ、痛い!! いや、痛いっ!!」

「砂嵐!! 呂布、砂嵐を放して!!」


 握られた手がミシミシと悲鳴を上げた。
 こんな細い女性の手で、こんな力が出るなんて……折れてしまう!
 振り払おうと抵抗してみるが、びくともしない。


「子猫ちゃん、わたくしの質問に答えていただけませんこと?」

「どうしてって……、元々はわたしが曹操のところに行けば徐州から手を引くと言われて……!」


 直後、ふっと手から力が抜けた。
 けれども手はしっかりと握られたままで、骨も未だ余韻に痛む。いつまた同じことがあるか、そう思うとぞっとする。

 縋るように関羽を見ると、彼女は一瞬だけ申し訳なさそうに眦を下げた。

 そんな二人のやりとりなどいざ知らず。


「ああ! そう言うことでしたのね! そうですわよね、子猫ちゃんが自分から行くはずがないですわね。こんな自尊心の高い、根暗で陰険な若年寄みたいな男のところなんかに」

「貴様……!」

「止せ、夏侯淵。あいつの傍には一般人がいるんだぞ」


 弓矢を構えかけた夏侯淵を夏侯惇が即座に止めた。


「それにしても曹操、貴方は相変わらず陰湿ですのね。子猫ちゃんの弱みに付け込んで無理矢理、自分の物にしようだなんて!」


 安心してね、子猫ちゃん。
 こんな男、今すぐわたくしが斬り刻んで貴女を自由にして差し上げますわ。

 斬り刻む――――。
 今まで殺してきた兵士、みたいに?

 呂布が「少しだけ、待っていて下さいね」と手を離すと、砂嵐はその場に座り込んでしまった。足に力が入らない。全身が震える。
 気を失えたら、どんなに良いだろうか。

 戦斧を構えた呂布に関羽は慌てた風情で声をかけた。


「待って、呂布! 違うのよ、確かに最初は無理矢理だったけど、今は違うの! わたしはわたしの意志で曹操の傍にいるのよ!」

「関羽……」


 曹操は感じ入ったように関羽を見下ろす。

 反対に、呂布は愕然とした。


「どういうことですの!? 曹操と一緒にいるうちに情でも移ったんですの!? 子猫ちゃんともあろう子が、そんな下らない男女の馴れ合いをするようになってしまったの!?」


 呂布の声は、悲鳴に近かった。

 そんな彼女を真っ直ぐ見据えて、関羽は淀みなく答える。


「馴れ合い? わからないわ……でも、この人の傍にいたいのは事実。それを下らないとは思わないわ」

「――――貴女は、今ちょっと夢見る乙女ですわね。わかりましたわ」


 今すぐ子猫ちゃんの目の前で曹操の四肢をへし折り、はらわたを引き摺り出して差し上げますわね。


「え?」

「そうすれば、貴女の目も覚めますわ」


 うっとりと言って、呂布は戦斧を握り直した。


「さぁ曹操! 今すぐ殺して差し上げますわ! 惨めにむごたらしく死に晒しなさい!」



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