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夥(おびただ)しい死体から発せられる腐臭が吐き気を誘発する。
人々は一様に物影に潜み、生きる為にじっと息を殺し続けた。
ふと目の前でやせ衰えた老犬が非情な兵士の的にされ、矢を射られて苦しみ悶える。やがて、絶命。あれは何処そこの飼い犬だったと誰かが憐れんだ。
今度はあの老犬が、人と変わるかもしれない。それは自分かもしれない。
食事なんて、人としての生活なんて、今はどうでも良い。
それよりも今は彼らの目をどう切り抜けるか、だ。
見つかれば死ぬ。陵辱される。
絶望に暗く陰った双眸には、すでに希望も祈りも無く。ただただこの《今》をやり過ごすことしか、人々の頭にしか無かった。
荒廃しきった町の中、砂嵐と恒浪牙は隠れつつ、人々を捜す。
今まで見つけた人々には、道すがら大量に拵(こしら)えた薬を渡し、なおかつ体調なども診察した。勿論、手遅れの人間も少なくはない。それでも一縷(いちる)の望みと、恒浪牙が薬を惜しむことは無かった。
砂嵐は人々の中に猫族の姿も捜した。関羽が心配をしているから、せめて自分が彼女の代わりに安否を確かめてあげたかった。
だが、今のところ一人も見つかってはいない。
まさか全員――――いや、猫族は優れた身体能力を持っているのだと義兄が言っていた。だから大丈夫だ。きっと、否、絶対生きている。
挫(くじ)けそうな自分に何度もそう言い聞かせた。
「義兄さん……薬がもう残りがありません。私、材料を採りに行ってきます」
「いや、一緒に行こう。この町の近郊も、きっと兵士が彷徨いていることだろう。一人で行動するのは危険だ」
「けど、それでは他の方々が――――」
「だから、急いで行こう。分かったね?」
恒浪牙とて、助かる命を見捨てるつもりは毛頭無い。
急ごうともう一度強く言って、彼は物影から顔を出した。
すると、何処からか逃げてきた小さな子供がすぐ側で転ぶ。ほぼ骨と皮だけの手足には多数の痣と傷があって、くっきりと濃い隈のある顔は恐怖と絶望に土気色だ。体型や面立ちから性別は判別出来ない。
その後ろから歩いてくる姿に、恒浪牙は目を瞠った。
――――呂布。
恒浪牙がそう呟いたのを砂嵐は聞き逃さなかった。
この徐州を襲った凶将の名前だ。
その後ろには金髪に優しげな風貌をした優雅な男性が従っている。確か、兌州近くの山の中で見かけた筈。呂布の配下と直に会っていたなんて、ぞっとする。
丁度曹操軍がこちらに攻撃を仕掛けてきたことを恒浪牙から聞いていた砂嵐は、きっと彼女らが迎え撃つのだと推測する。そうなれば、ややもすれば城に侵入できるかもしれない。まだ城に取り残された人がいれば――――。
「全く……邪魔ですわよ。逃げるのは勝手ですけど、わたくしの行く先に逃げないでいただけませんこと?」
「ひ……っ!」
お母さん。
掠れた声が、砂嵐の耳にもしっかりと届いた。
転んだ所為で逃げる力を失ってしまったその子供は、呂布を見上げて震え戦(おのの)く。
呂布は不愉快そうに後ろの男を呼んだ。ちょうりょう、という名前のようだ。
彼は柔和な声で応じ、じゃらりと複数の刃を繋いだ奇妙な剣を構えた。
殺されてしまう!!
心の中で叫ぶのと砂嵐の身体が動いたのはほぼ同時だった。
小声で恒浪牙が呼んだけれど、それよりもあの子供が危険だ。
砂嵐は子供の前に立って両手を広げ呂布を睨んだ。
「この子を殺させはしません!」
呂布は驚いたように数回瞬きし、ふっと笑顔になった。
「まあ、なんて可愛らしい!」
「……え……?」
両手を合わせて顔の横に持って行く呂布に、砂嵐は面食らってしまった。
「貴方は徐州の方かしら? だとしたらどうして気付かなかったのかしら。わたくしったら、こんな可愛い子を見殺しにするところでしたわ!」
……まさか、気に入られた?
いやそんなことは有り得ない。きっと油断した隙に殺すつもりなのだ。
砂嵐は抜けそうになった気を引き締めて呂布を睨み据えた。
だが、呂布はその視線を何故がうっとりと受け止めるばかり。
正直これからどうするべきか困ってしまう。
呂布の不可思議な反応に一人考え倦(あぐ)ねていると、背後の子供が悲鳴を上げて逃げ出した。
義兄さん、お願いします……!
心の中で義兄へと念じた。
が、現在子供以上に危険なのは砂嵐である。
「眼帯しながら可愛い子なんて、饕餮ちゃんだけだと思っていましたのに!」
呂布は喜々と砂嵐に歩み寄り、頬をそろりと撫でた。びくりと身体を震わせると、笑声。
「まあまあ、まるで小動物みたいですわね。今すぐにでも可愛がって差し上げたいくらい」
「……っ」
ぬらりと紅唇から覗いた赤い舌に、悪寒、警鐘。この人物はこの世の何よりも危険だと、本能が叫んでいる。
逃げないといけないのに。
足が竦(すく)んで動かない。
義兄さん……!
助けてと叫びそうになった砂嵐は咄嗟に唇を引き結ぶ。駄目だ。義兄まで見つかったら助けられなくなってしまう。
今はまだ自分だけ。自分が彼女の注意を向けさせないといけない。
「あ、の……私、」
「ああ、そうですわ。貴方もいらっしゃいな。これから、外で楽しいことが始まりますのよ」
「そ、と?」
「今から、沢山の血と悲鳴を浴びれますのよ」
「素敵でしょう?」――――正気を疑う。
素敵じゃない!
心が叫ぶ。
逃げようとしたが、しかしその前に呂布にがっちりと右手首を捕らえられて失敗する。
「さあ、参りましょう。大丈夫、楽しめば良いんです。きっとクセになってしまいますわよ」
ならない! 私はそんな風には絶対にならない!
「は、離して……っ」
「張遼ちゃん、行きますわよ」
「はい」
砂嵐の拒絶も虚しく、呂布は彼女の腕を引いて歩き出した。
この後に来る惨劇を予想するだけで、砂嵐は顔面蒼白となる。
誰か助けてと声も無く絞り出した声は、呂布と張遼以外、誰にも届かないのか――――。
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