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 恒浪牙は大仰に吐息を漏らした。
 徐州の状況はあまりに酷い。鳥の目を使って町の中を見たが、凄惨なんてものではなかった。それよりももっと残虐極まる、まさに地獄。

 不衛生な町中ではいつ疫病が発生してもおかしくはない。運良く生き残って息を潜めている町の者達も、猫族もこのままでは生命は更に逼迫(ひっぱく)する。
 恒浪牙は自身の側で眠り込む砂嵐の土気色の顔を見下ろし、思案深げに顎を撫でた。

 近頃砂嵐の調子がすこぶる悪い。
 本来の器から離れている時間が長かった為だ。
 放置してしまうと砂嵐の身体に保存した魂が乖離(かいり)し、本来の器に戻ろうと世をさまよい出すであろう。
 元々間に合わせで作った砂嵐の身体はそろそろ作り替えるべきだった。
 目覚める筈のない意識が目覚めてしまったことで、その魂は実質四つの人格を持ってしまったことになる。魂の負荷は計り知れない。


「彼女の魂は、一旦戻した方が良いんだろうね」


 されども、潜在意識が強硬手段を取ってくるかもしれない。
 しかも、状況が状況だ。《あの天仙》の前では、四霊の潜在意識は勢いを増す。そのように彼らは作られているのだ。
 今自分のしようとしていることがどれだけ危険なものであるかは百も承知だ。犀煉が許しはしないだろう。

 彼に叱られる覚悟で、本来の器を回収しに行くのだ。


「……下手をすれば、武力行使もやむをえない、か――――」


 なるべくなら泉沈には、手痛いことをしたくはないのだけれど。
 状況次第では、あの子も傷つけなければならぬやも……。
 老いぼれには、ちょっと辛いかなあ。
 首をぐるりと回し、恒浪牙は後頭部を掻いた。



 曹操軍が徐州に侵攻する、僅か二日前のことである。



‡‡‡




 まず、関羽率いる第三部隊が先陣を切る。そこに関羽を見出せば呂布は喜び勇んで飛び出してくるだろう。
 呂布を関羽がおびき寄せた後は曹操と共に彼女の相手をし、その間に趙雲は呂布と共に出陣するであろう張遼を、夏侯惇夏侯淵はいるかは分からないが、犀煉を迎え撃つ。
 彼らの戦力を考えて、また泉沈が呂布に協力しているとの犀煉の不確かな情報を考慮し、主力を率いての戦である。
 袁紹のこともある為、この戦、早急に終わらせなければならない。

 関羽は第三部隊に向かって、声を張り上げた。


「聞いてみんな、今日戦う呂布はとても強く、その上容赦ない人なの。呂布が出てきたら、わたしと曹操戦うから、みんなはどうか無理せずその場から離れて頂戴」


 今ではすっかり関羽を武将と認めてくれた兵士達は、彼女の言にさっと青ざめた。


「そんな、お二人を置いていくなんて出来ません!」

「お願いよ。それだけ呂布は強いの。わたしはみんなに死んで欲しくない。だから、これは命令よ」


 本心の言葉と共にキツく言い聞かせれば、彼らは承伏しかねるような顔でいながらも従ってくれる。

 呂布は強い。
 曹操と二人で挑んでも、勝てるかどうかは分からない。
 せめて幽谷がここに加わってくれたら――――。

 ……いや、今は止そう。
 幽谷も砂嵐も恒浪牙も、猫族や徐州の人々も、呂布によって苦しめられている。
 彼らを救う為に――――絶対に勝つ。

 そして彼らに告げなければならない。
 これからの生、曹操の側にいたいのだと。


『……関羽、私は将としてでなく、ただ普通に、お前に傍にいてもらいたいのかもしれぬ……』

『私は自分が本当に欲しいものがわからず手当たり次第、手に入れようとした。……しかし、私が本当に欲しかったものは、お前のようなぬくもりだったのかもしれぬ』

『関羽、これからも私の傍にいてくれ』



――――今でも思い出せば胸がほっと熱くなる。
 あれは夢ではなかったのか、自分の心が見せた幻影ではなかったのか……今でも疑ってしまう。

 わたしは駒でなくても、良いのよね?
 わたしはわたしとして、あなたの側にいても良いのよね……?
 胸に拳を当てて、関羽はふっと視線を曹操に向けた。

 ……皆、許してくれるだろうか。
 曹操は今まで猫族に酷いことをした。張飛なんか、絶対に反対してくるかもしれない。
 幽谷も――――きっと、頷いてはくれない。

 わたしが曹操の傍にいることになってしまったら、幽谷はどうなるのだろうか。
 ……やっぱり傍にいてもらうのは、駄目だろうか?
 猫族を守っていて欲しい反面自分の傍にいて欲しいなんて、思っている。
 彼女のことが心配でもあるし、傍にいると安心出来る。

 自分から突き放しておいて、虫の良すぎる話だろうけれど。


――――と、関羽の思案を中断させるかのように、兵士が曹操の前で拱手(きょうしゅ)した。


「曹操様、全軍、出撃準備整いました!」


 曹操は深々と頷く。涼しげな顔は、今は緊張に引き締まっている。相手が呂布であるが故だ。関羽も今から呂布を倒すのだと思うと、今まで以上に身が引き締まる。


「よし、共に参るぞ!」

「ええ!」


 互いに頷き合い、馬上から兵士を見下ろす。


「いざ、出撃!!」

「第三部隊、行くわよ!!」


 直後、喊声(かんせい)が大地を揺るがす。



 その中、趙雲の隣にいた夏侯惇は無表情に下邱を見つめていた。
 それに気付いたのは夏侯淵のみである。



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