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「これはどういうことだ」
夏侯惇は眉を顰めて砂嵐の身体を支えるように側に佇む門番に問いかけた。
門番は姿勢を正し、夏侯惇へと駆け寄った。そっと耳打ちして事の次第を短く説明すれば、皺が更に深くなった。
夏侯惇は門番の肩を軽く叩き砂嵐に歩み寄ると、ごしごしと袖で乱暴に目元を拭う彼女に手を差し出した。
砂嵐は戸惑うように夏侯惇を見上げ、促されて謝罪を口にしつつ立ち上がった。さらりと揺れる彼女の艶やかな黒髪にはもうあの簪は挿されてはいなかった。それが、ほんの少しだけ惜しく感じられた。
「大丈夫か」
「はい。本当にご迷惑をおかけしてしまって申し訳ありません」
深々と頭を下げる彼女に、夏侯惇は「気にするな」とかける。
馬車に向き直り、不機嫌そうに砂嵐を見下ろしてくる姫に話しかけた。
「他人の簪を我が物にするとは、位ある者の行いとは思えんな」
門番が話した簪とは先日彼女が付けていた銀の簪のことだろう。気に入ったからと言って、位の高い者が他人の物を奪い取るとは、由々しき事態である。それこそ高位の矜持を陥れるような、賊の所業。
姫は目を見開き、夏侯惇に疑うような眼差しを向けた。
「何を仰いますか。簪とて、相応の者が付けてこそ喜びましょう。それはそこな見窄(みすぼ)らしい娘ではございませぬ。眼帯などしておりますのに、その娘に女の価値などございましょうか」
ぞんざいで傲慢な物言いに夏侯惇は溜息を禁じ得なかった。これで、なかなかの家柄なのだ。夏侯惇の見合い相手になるには十分な程の。勿論、その気は全く無いのだけれど。
砂嵐が夏侯惇を呼ぶ。
彼女は儚げな笑みを浮かべてこうべを垂れた。
「あの、もう大丈夫です。夏侯惇様達のご迷惑になる訳にはいきませんので……気になさらないで下さい」
不思議そうに事態を眺める夏侯淵にも、弱り切った様子の門番にも謝罪し、砂嵐は馬車の姫を見上げて無理矢理と分かる微笑みをかんばせに張り付けた。
「その簪は差し上げます。道中、何とぞお気を付けて」
途端に素直になった砂嵐に、姫は鼻を鳴らした。扇で口元を隠し、白けた視線を馬車の中に戻した。
「……最初からそのように神妙に致せばよろしいのだ。平民の分際でわたくしの言葉に逆らうなど、本来許されるものではないぞ」
じゃが、わたくしは心が広い。
このことは、夏侯惇様に免じて不問にしてやろうぞ。
姫が合図を出せば馬車は動き出す。砂嵐は脇に退いて深々と頭を下げた。下げる瞬間、ぎりっと微かな音がしたのを、夏侯惇は聞いた。
馬車が見えなくなって、砂嵐は長々と吐息を漏らしつつ背筋を伸ばした。その顔は暗く沈み、青ざめていた。その様子から、これが彼女が望んだ結果でないことは明らかであった。
「良いのか?」
「……はい。義兄の薬を贔屓なさって下さっている夏侯惇様達にこれ以上ご迷惑をおかけすることは出来ません。譲って下さったお客様には、後に謝罪しに参ります」
「譲った? 客に貰ったものだったのか」
砂嵐は首肯した。
あれは常連の女性が、己の旦那の形見を自分に使って欲しいと譲ってくれた大事な物だったのだと小さな声で語った。
だから、こんな様子なのか。
「それなら、あのまま取り返した方が良かったんじゃないのか」
夏侯淵が歩み寄って馬車が去っていった方向を見据えた。先日城を彷徨(うろつ)いていたことを、さすがに今は咎めはしなかった。
砂嵐はふるふると首を横に振った。
「きっと幾ら食い下がっても聞き届けては下さらなかったでしょう。であれば、夏侯惇様達にご迷惑をかける訳には参りません。元はと言えば懐でなく腰に差していた私に原因があるのですし。まことに申し訳ございません」
何度目かの一礼に、夏侯惇はまだ何かを言おうと口を開いた。
だがそれを遮って関羽が城から出てきて、砂嵐を呼ぶ。
砂嵐ははっとそちらに顔を向けて笑った。
夏侯惇達に頭を下げて関羽に駆け寄った。互いに両手を握り合う。
「明日兌州を出て行くって聞いたわ。随分と急なのね。何かあったの?」
「ええ。義兄さんが徐州に行くと行ったから、無理を言って私も同行すると頼んだの」
「徐州だと!?」
後ろで夏侯淵が驚いて声を上げた。
振り返ると夏侯惇が狼狽した風情で砂嵐に詰め寄ってきた。
「今徐州がどのような状況にあるか、知らないのか?」
「存じております。その為、義兄は私をこの町に置いていこうとなさいましたが、私もついて行くことにしたのです」
危険なことは承知の上だ。だが危険だからこそ、義兄を一人で向かわせたくないのだ。
「それに、危険と仰いますが、私達よりも徐州の方々が一番危険なのでしょう? ならば、義兄の薬が必ず役に立つと思うんです。だからこそ、義兄も徐州へ行くのだと決めたのだと思いますし」
そこで、関羽がふと口を挟んだ。この中では一人、彼女だけがきょとんとしていた。
「あの……徐州が危険って、どう言うことなの?」
「え? 関羽さん、知らされていないの?」
心底不思議そうに彼女は夏侯惇と砂嵐を見比べる。
「貴様、知らないのか?」
「え?」
「徐州は今、呂布に攻められているんだぞ」
幽州の趙雲が曹操へ援軍を乞いに来ている。
夏侯淵の言葉に、関羽の顔から一切の表情が剥がれ落ちた。彼女は知らなかったのだろうか。みるみる青ざめていく。
はっとした夏侯惇が叱るように夏侯淵を呼んだ時にはもう遅く。
「どういうこと……?」
関羽は小さく呟き、くるりときびすを返した。
「関羽さん!?」
「待て女!!」
夏侯惇達が慌てた風情で彼女を追いかける。
砂嵐も追おうとしたけれど、門番に駄目だと腕を捕まれて立ち止まることを余儀無くされてしまった。仕方なく、関羽の背中を口惜しくも黙って見送った。
「関羽さんのあの様子……もしやお知り合いの方が徐州にいらっしゃるのですか?」
「今徐州には十三支が身を寄せていると聞く。だが、相手はあの呂布だ。落とされるのも時間の問題だろうな」
落とされれば……危険が更に増す。
猫族の者達が怪我をしたら、関羽は悲しむだろう。
砂嵐は一人大きく頷くと、門番に関羽への伝言を頼んで義兄にこのことを話そうと駆け出した。
それを受け、恒浪牙が兌州を発ったのは、日も登り切らぬ頃であった。
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