夜が明けた。
 幽谷は未だ、曹操の軍を見張り続けていた。
 曹操の言の通り、軍に動きは無かった。もっとも、まだ信用に足るかは分からぬが。
 幽谷は懐や外套の裏に隠した暗器を確認し、村の方を見やった。
 そちらからは猫族の皆が歩いてきていた。その中には関羽や張飛の姿もあった。

 幽谷は彼らの邪魔になってはいけないと、数歩横に退いて拱手した。


「おはようございます、皆様」

「おう、おはよう――――って幽谷お前、もしかしてあれからずーっとここにいたのかよ!?」

「はい」


 舌を巻く張飛に「当然のことですので」と返す。

 すると世平や関定が苦笑し関羽を見やった。


「……だから昨日、ちょっと関羽の機嫌が悪かったんだなぁ」

「幽谷。何もそこまでしなくても良いんだよ」

「いいえ、皆様をお守りしますのは私の役目であります故」

「うっへぇ〜、マジで頭固いなよあ……」

「恐縮です」

「幽谷、張飛は褒めてないから」


 真顔で頭を下げる幽谷に、蘇双が静かにツッコんだ。


「ほら、そんなことよりさっさと行くぞ。曹操が待っている」


 前方を見据えて、世平。

 幽谷は頷いてすぐさま集団の後ろについた。
 彼らが歩き出すのに従って暫(しばら)く、不意に足を止めて村の方を見やった。


「……あれは」


 米粒程の大きさのその《影》に、幽谷は目を細めた。
 ……関羽様達は、あの方に何も仰っておられないのかしら?


「幽谷、どうかしたのか?」

「……いいえ」


 猫族の男に声をかけられ、幽谷はかぶりを振った。
 これは一悶着あるかもしれないわね。
 恐らく、出発するまでに時間がかかるだろう。
 剣呑なことにならなければ良いが――――。



‡‡‡




「曹操様、十三支たちが来ました!」


 兵士の一人が声を張り上げた。

 この緊迫した空気、猫族の中に言を発する者は無かった。
 皆、曹操を睨むように強く真っ直ぐに見据えて、敵意を滲ませる。

 曹操は薄く口角をつり上げた。


「……来たか。それで、お前たちはどちらを選んだ?」


 す、と関羽が前に進み出る。即座に幽谷も彼女の背後に立った。


「猫族が長、劉備の代理人であるこの関羽が、一族の総意を伝えるわ」

「お前が長の代理人? ふっ、いいだろう」

「あなたに協力すれば、村には手を出さないのよね?」


 曹操は鼻を鳴らし、頷く。


「なら、わたしたちはあなたに協力する。猫族の無実を証明するために。でも、あなたの下で戦うつもりもないわ」

「ほう……」

「女! 曹操様を愚弄するのか!!」


 息巻いた夏候惇が剣に手をかけたのを見、匕首を構える。
 しかし関羽が手で制した。


「勘違いしないで。戦いには力を貸すわ。でも、あなたの下にはつかない」


 わたしたち猫族はわたしたちだけで戦う。
 関羽の言葉は淀み無かった。強い意思を込めた目を曹操から逸らさない。


「これなら文句はないでしょう?」

「何だと!!」

「……」

「幽谷。お願い、抑えて」

「……御意のままに」


 匕首を懐に戻しつつ、しかしきっと睨みつける。動向を窺った。

 曹操は笑う。


「どうやら私はお前たちを甘く見ていたようだ。いいだろう、お前たちだけで私軍を作れ。私のために存分に力を発揮するがいい!」


 そうと決まればすぐに出立だ。準備をしろ!
 高らかに命じる彼に、憤りを感じる。
 しかし幽谷の表情には出なかった。

 ぎりっと微かに音がする。
 関羽だ。真一文字に口を引き結んだその中では、奥歯を噛み締めているのだろう。

 幽谷はそっと彼女の手を握った。


「幽谷……」

「今は、堪え忍びましょう。いざとなれば、私が全滅せしめてでも、皆様をお守りいたします」


 また顔を歪めた関羽を背に隠し、幽谷は冷笑を浮かべる曹操を睥睨した。


「関羽様」

「……ええ」


 猫族を振り返ると、村に残ることになった女と子供に老人、そして僅かな男達が世平達に声をかけていた。

 そして関羽と幽谷にも、彼女らは声をかけてくれた。


「気をつけて行くんだよ。幽谷は、今までよりもっと自分のことを大事になさいね」

「関羽お姉ちゃん、幽谷お姉ちゃん、約束だよ。早く帰ってきてよ!」

「……承知しました」

「うん……」


 この中で一番不安なのは、恐らくは残される側の人間なのかもしれない。
 幽谷は彼女達のかんばせが暗く陰っているのを見、関羽を流し目に見た。弱々しい笑みを、抱きつく少女に向けていた。


「みんな、心配すんな。いざって時のために若い奴らも何人かは残すことにしたからよ」

「みんな、村のことと劉備のこと、お願いね」


 この場に、劉備の姿は無かった。駄々をこねてついて来ると言いかねないから、置いてきたのかもしれない。

――――が。


「みんな、どこ行くの?」


 彼は、しっかりと彼らについて来ていたのだ。

 最初から彼が来ていると分かっていた幽谷だけは、しまったと表情に表す猫族の者達とは違い、落ち着き払っていた。
 劉備に近付き、声をかけた。


「劉備様、おはようございます」

「おはよう、幽谷。ねえ、みんなどこに行っちゃうの?」


 ぎゅっ、と袖を握られる。

 さて……。
 幽谷は徐(おもむろ)に関羽を振り返った。


「如何にいたしましょう」



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