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「砂嵐。明日、ここを発つことにしたよ」


 恒浪牙は重苦しい表情で砂嵐に告げた。
 どうしてかを聞くと、徐州が今、大変なことになっているらしい。
 呂布という圧倒的な強さを誇る凶悪な武将が大勢の兵士を連れて攻め寄せているのだという。


「徐州の人々に、薬を何とかお渡ししたいんだ。勿論砂嵐は危ないからここにいると良い。曹操様の統治下にある町ならば安全だ。私が帰ってくるまで、この宿でお手伝いでもしながら泊まらせてもらっておくれ」


 恒浪牙の言葉に、砂嵐はぞっと悪寒に襲われた。


「そんな……私も行きます。そんな危険なところに義兄さんを一人でなんて行かせられません。足手まといになるとは分かっています。けれどどうか私も連れていって下さい」


 恒浪牙は苦笑し、言葉を濁す。

 砂嵐は首を縦に振ってくれない義兄にしつこく食い下がった。危険な場所に義兄を一人で行かせて自分は安全な場所にいるなんて――――《もしも》がとても恐ろしい。想像しただけでも身が凍る思いである。
 時間をかけ、必死に言葉を重ねて頼み込むと、恒浪牙はやおら嘆息し、折れてくれた。

 ただし、危険だと思った時は先に逃げることを約束させて。


「では、今すぐ発ちましょう」

「いいや。明日で良いよ。それよりも今日は最後だから、ちゃんとお客さんにご挨拶をしていかなければならない。砂嵐も、関羽さんにちゃんとご挨拶をしてきなさい。暫くは兌州に戻れなくなってしまうだろうからね」


 立ち上がって荷物を持った恒浪牙は、悲しげに微笑む。謝罪をしないのは、彼女が恒浪牙について来ることを切願したからだ。

 砂嵐は頷いて、店の手伝いをする前に、城へ赴くこととした。
 恒浪牙はたっぷり時間をかけてきなさいと言ってくれた。
 なら、関羽だけじゃなく夏侯惇にも挨拶をしていこう。彼にも世話になった。何も言わずに町を出て行くのは無礼だ。

 店を構える場所の近くで義兄と別れて小走りに城を目指した。
 近くまで来ると城門の前に立った兵士達が砂嵐に気付いて朗らかに応対してくれた。


「どうしたんだ、砂嵐。何だか慌てているようだが……何かあったか?」

「あ、いえ……明日この町を発つと義兄に言われましたので、せめて関羽さんや夏侯惇様にご挨拶をと。それに、兵士の皆さんには出来ませんが、お二人にも」

「そうか……、では、もう会えぬかも知れぬのだな」


 頷いて一礼すれば、兵士らは口々に礼を言ってくれた。砂嵐も、微笑んで礼を口にする。


「夏侯惇様は分からぬが、十三支の娘なら大丈夫だろう。俺が連れてこよう」

「すみません、お役目の邪魔をしてしまって……」

「いいや、構わないさ。今まで世話になったせめてもの礼さ。お前達兄弟の薬のおかげで、傷の治りが早くてな。鍛錬を長く休まなくて助かる」


 ここで待っていろと言いおいて、門番の片方は足早に城の方へと歩いていった。
 彼の背中に向かって頭を下げれば、残ったもう一人の門番に話しかけられる。


「次は何処へ行くんだ?」

「徐州です」


 答えた瞬間兵士が言葉を失った。
 呂布のことはもう曹操軍には知らされているだろう。きっと砂嵐達よりも正確に。
 だからこそ彼は慌てふためいて砂嵐を止めた。


「砂嵐、悪いことは言わない。今の徐州は止めておけ。行けば戦に巻き込まれてしまうぞ」

「はい。お噂は聞いております。今、徐州に呂布という方の軍に攻められておられるのですよね」

「分かっているのなら何故……」

「義兄は、戦に巻き込まれてしまった徐州の方々に薬を差し上げたいのです。痛くて苦しいのはとても辛いことです。それを少しでも拭ってあげたいのだと思います。義兄は優しい方ですから」


 本当は自分はここに残るつもりだったのだけれど、義兄が心配だからついて行くことにしたのだと言えば、兵士は唇を曲げた。


「しかし……呂布は化け物だ。目を付けられればどうなるか……」

「大丈夫ですよ、きっと」


 危なくなれば逃げますと言っても、彼の表情は晴れはしなかった。
 彼が何かを言おうとして口を開いた時、はっと城の方を見やって砂嵐の腕を掴んで引き寄せた。

 馬車だ。
 砂嵐も見覚えのある馬車が城門を通りかかったのだ。
 あの何処ぞの姫は、まだこの城に滞在していたようだ。

 兵士の隣に並んで拱手していると――――何故か馬車が前で止まってしまう。
 何か馬車に異常でもあったんだろうか。
 頭を下げたまま不思議に思っていると、


「そこな娘、面(おもて)を上げよ」


 声がかかった。
 いや、まさか自分であろう筈もないか。
 誰が呼ばれたのだろうかと頭を下げ続けていると、また同じことを苛立った声で言われた。

 え、私?
 顔を上げると、馬車の小さな窓からあの深窓の姫君の少しばかり不機嫌そうな顔をして砂嵐を見下していた。


「そなた、その年でもう耳が遠いのか」

「い、いえ。私にお声をかけて下さったとは、夢にも思いませんでしたので……あの、私に何か?」

「その簪(かんざし)、よう見せてみよ」


 簪って……ああ、腰帯に差していたのだった。
 客から譲り受けたあの簪を帯から抜き彼女に差し出せば、奪い取るようにさっと取り上げて、ほうと吐息を漏らした。


「これはこれは……何とも見事な細工じゃ。そなたのような平民が持っていては勿体ない」

「あ、ええと……光栄です」

「これは貰い受けるぞ。そなたには似つかわしくない」

「え? ――――だ、駄目です!!」


 懐に入れようとしたのに慌てて声を張り上げた。
 それは客の大事な物だったのだ。それをいただいたのに、誰かにやるなんて!


「返して下さい! それは大事な物なのです!!」

「そなたには似合わぬ。似合う者が使うてこそ、装飾品は輝くのじゃ。そなたのような雑草のような娘を飾っても、鈍るばかりよ」

「そ、そんな……! 本当にそれは駄目なんです!!」


 確かに似合わないけれど、でも!
 砂嵐の脳裏に、簪をくれた客の笑顔が浮かぶ。
 どうしても返してもらわなければと馬車に近付くと、その護衛が砂嵐を押し飛ばした。
 地面に座り込んだ砂嵐の側に門番が屈み込んで背中に触れた。


「砂嵐、諦めるんだ。この方は俺達とは身分が違うから……」

「でも、でもあれは大事なものなのです!! お客様から譲り受けた品で……っ」


 彼女の厚意が無駄になってしまうじゃないか!
 門番の腕に縋りつくようにしながら立ち上がり、また馬車に近付いて訴えようとする。

 けれど、護衛に剣を向けられては足を止める他無かった。

 姫君が勝ち誇ったように鼻で笑う。

 じわり。
 視界が滲む。
 そんな……あの人の簪が!

 門番が肩を掴んで後ろに引いたのに、砂嵐は力無くその場に座り込んだ。


「感謝するぞ、娘。おかげでわたくしの飾りが増えた」

「……酷い」


 夫さんの大事な形見だと客は言っていた。
 それなのに……!
 髪に挿すのを遠慮して帯に差していたことを、深く後悔した。せめて懐に入れていれば姫君の目に留まることなど無かったのだ。
 帯に触れて俯くと門番が慰めるように肩を叩いた。

 その時である。


「何事だ」

「あ……か、夏侯惇様、夏侯淵様!」


 弾かれたように顔を上げると、夏侯惇と目が合った。瞬間、はらりと頬を伝うものを感じた。

 彼は砂嵐の様子に瞠目した。



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