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 一方、徐州――――近郊。


「呂布様、見えて参りました」


 張遼は、ゆったりと主を振り返って微笑んだ。

 艶めかしくも危うい妖艶な雰囲気をまとう女性、呂布は横たわる三日月のように歪めた紅唇の隙間から、転がるような笑声を漏らした。暗い欲望を宿した扇情的な双眸が、すっと細められる。


「今度はあそこで楽しませて頂きましょうか」

「呂布様、結局次の遊び場はどこに決めたんですか?」


 呂布の腕に己のそれを絡めて上目遣いに問いかけるのは、貂蝉だ。

 呂布は彼女の頭をそっと撫でてまた笑声をこぼす。


「袁紹と曹操を血まみれにして遊ぶのも捨てがたかったのですが、わたくし、猫ちゃんたちと遊ぶことにしましたの。なので、次にわたくしたちが攻めるのは徐州ですわ」


 呂布の瞳の奥に赤い炎が灯ったのに、貂蝉がさっと顔色を変えた。慌てて呂布の前の立って両手で作った拳を胸の前に置いて頬を膨らませた。


「呂布様、あの泥棒猫とか四凶とかと仲良くなんてしないで下さいね!」

「うふふ〜」


 含みのある笑みに、貂蝉がたまらず瞳に涙を浮かべて呂布に抱きつく。その愛らしい瞳には険が宿り、嫉妬の炎が燃え盛る。
 そんな彼女に気付かぬ振りをして、呂布は黙って彼女の背中を優しく撫でる。


「徐州は何日くらいで落とせますでしょうか?」

「すぐに落としてしまってはつまらないですわね」


 顎に人差し指を添えて考え込む。
 そうして、両手を合わせて笑った。


「じわじわ弄って差し上げますわ」


 張遼は、恭(うやうや)しくこうべを垂れた。



‡‡‡




 未だ、関羽と幽谷の所在は掴めない。
 おまけについ数日前には泉沈が星河を連れて姿を消してしまっている。
 猫族は彼らの無事を祈り暗鬱としながらも、ひとまずは曹操襲撃からだいぶ立ち直れたこの国で比較的安定した暮らしを送れていた。



 だがそこへ突如、憔悴しきった兵士が城に飛び込む。

 陶謙へ急ぎの報告だと広間に転がるように入ってきた彼の尋常でない様子に、糜竺も陶謙も互いに顔を見合わせて眉間に皺を寄せた。
 糜竺は兵士を労るように側に膝をつき背中に手を添えてやった。


「一体どうしたというのですか? そんなに慌てて」


 兵士は何度か言葉を詰まらせ、一度唾を飲み込んでからその事実を告げた。


――――呂布が攻めてきた、と。


 呂布という言葉だけでも、内蔵が飛び出てもおかしくない程の衝撃だった。


 陶謙は即座に猫族に伝令を飛ばした。
 彼らならもしかしたら――――そう願ってのことである。

 猫族もまた、その方には仰天し、血相を変えた。
 呂布の側には張遼がいる。
 加えて伝令の話を聞けば兵の数は五万。

 今ここには幽谷も関羽もいない。呂布に対抗出来る程の武を持ち合わせた者がいないのだ。
 なんて間の悪い進軍であろうか!


「む、無理だよ。こっちはオレたちと徐州の兵、合わせて三万しかいないんだぜ。勝てっこない!」

「おまけに向こうには張遼もいる」

「そ、そんな……、こんなとき、関羽や幽谷がいてくれりゃあ……」


 猫族の男が頭を抱えて弱り切った声を漏らした。
 その隣で、別の者が周囲を見渡す。


「そういや、張飛はどこに行ったんだ? あいつまでどっか行ったんじゃ……」


 その問いに、関定が伏せ目がちに答えた。


「いや、あいつは……まだ関羽を探してるんだ。オレ呼んでくるよ!」


 この猫族の中で、今最も頼みとなるのは張飛の武だ。
 それに彼が外にいるのならば、呂布軍とかち合わせしかねない。
 関定が捜してくると大急ぎで町の外へと出て行った。


「俺は急ぎ幽州へ向かう。公孫賛様に援軍をお願いしよう」

「ああ、頼むぞ、趙雲」


 大きく頷いて見せた趙雲はしかし、ふと表情を陰らせる。


「……もし公孫賛様から援軍を頂けなかったら、曹操のところに行こうと思う」


 彼もまた、呂布を放っておきはしない。呂布の存在を危険視し、今もなお頭の片隅で彼女を排他する策を考えているに違いない。
 この状況下、徐州を圧倒的な武で制圧しようとした相手ではあるが、公孫賛から援軍が出なければ、彼の手を借りなければならない。よしや、援軍を出すに当たり、曹操から不利な条件を出されようとも。

 苦渋満ちる趙雲に、蘇双が同意した。不本意だと、表情にありありと現れている。


「確かにそうだね。呂布に徐州を滅ぼされたら元も子もないからね」


 曹操が出してくれるかも分からないが……それでも苦肉の策だ。公孫賛が出してくれれば良いが、公孫越が阻む可能性も高い。これは仕方がないのだと、趙雲もまた自身に言い聞かせた。
 重々しい空気の中、だんまりと話を聞いていた劉備が、世平の服をくいっと引っ張った。


「世平、また戦なの……?」


 世平は頷き、劉備の頭をそっと撫でた。


「劉備様は陶謙様のお城に避難させてもらいましょう。蘇双、お前は劉備様についてろ」

「うん、わかった。――――劉備様、こちらへ」


 蘇双が差し出した手をじっと見つめ劉備は瞳を揺らした。
 世平を見上げれば、優しく促される。

 仕方なく、その手を取った。


 三つの名前を、心の中で呟きながら――――。



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