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――――ここで、時を遡ろう。



 恒浪牙は後ろを振り返り、苦笑を浮かべた。顎を撫でて、小さく謝罪する。

 金髪の青年は途端に朗らかな笑顔を消し、舌を打った。見た目を裏切った冷徹な眼差しは、恒浪牙と、その足元に転がった男女を交互に睨めつけた。


「怖い怖い。その姿でガン付けるのは止めていただけないかな」

「……何故こいつらと接触している」

「何故って……君は私に、ただ彼女を隠せと言っただけじゃないか。誰からなんて教えてもらっていないから、取り敢えず呂布や泉沈から隠せば良いのだとばかり思っていたよ。というか、私の目の為に元の姿に戻ってくれないか」


 犀煉。
 そう呼ばれた青年は目を伏せ、指を鳴らした。

 すると瞬く間に姿はまるで正反対のものへと変わる。漆黒の髪に左目を覆い隠し、赤い目が爛々と輝く。鉄紺の外套で全身を覆った彼はそっと手を伸ばし――――恒浪牙の頭を殴った。

 恒浪牙は「いてっ」と反射的に声を上げた。
 されども彼が本来痛みを感じない身体であることを、この男は何十年も前から知っている。


「何だい、犀煉。私を殴ったって、君の落ち度であることに変わりは無いよ。……そりゃあ、出てはいけない意識を呼び覚まして、こんな状態にしてしまったのは、申し訳ないと思っているけれどね」

「お前達はこの兌州から出ろ。《あれ》を猫族の娘の側に置く訳にはいかん」


 恒浪牙はぐにゃりと顔をしかめた。
 彼の言うことも分かる。
 確かに、彼女の傍にいれば在る筈のない自我は潜在する意識を苛立たせる。ともすれば、自我は消えてしまうだろう。

 だが、そうは言うが、今の砂嵐を歩かせることは非常に難しかった。
 砂嵐の器は恒浪牙が慌てて作ったものであるから、脆い部分がある。今回のように雨にずぶ濡れになってしまった彼女は、暫くは長距離は歩けない。

 あの時は完璧な物を作る暇が無かったのだから致し方ないのだが、犀煉にそう訴えても取り合ってくれはしない。彼はそんな性格だ。融通を利かせるのは、遠い昔に病を患って命を落とした彼の最愛の妹にだけ。


「器の状態が安定したら兌州を出るよ。そうして、また新たに器を作り直す。今度はちゃんと細部まで念入りに作るよ。それで良いだろう」

「今すぐにだ」

「それは無理だ。器に要らぬ負担をかけては、魂も無事では済まない。魂が傷つけばどんな悪影響があるかは分からないよ」


 やんわりと、しかし堅く拒む地仙に犀煉は舌打ちした。それ以上何も言わなくなってしまう。

 恒浪牙は彼から目を逸らし、昏睡状態の関羽達を見下ろした。
 これから、ここで見たことを彼らには忘れてもらわねばならない。
 雪蘭の娘に本当のことを話せないのはまことに心苦しいが、犀煉はそれを断じて許さない。

 一時繋がった縁より、長く見守ってきた縁の方が、彼にとっては大事なのだった。


「犀煉。君はもう帰った方が良い。呂布のもとにいなさい。あまり側を離れていると――――彼女はとても聡いから」


 今、犀煉がどんなに危ない橋を渡っているか、恒浪牙はよく分かっている。
 それが何の為なのかも、彼は知っている。
 その上で《ある程度の》協力はすると決めているのだ。

 それは同情だ。
 天に弄(もてあそ)ばれているが如き彼らの生に対する憐憫。
 恒浪牙の行為は償いの偽善であった。

 それは勿論泉沈にも向けられている。
 今まで生まれた四凶の中で、泉沈は最も異質で哀れな存在だ。
 本人自身どうにもならぬ激情を抱え、たった一つの願いの為に周りを動かすことに奔走する。
 仙人を酷く毛嫌いする泉沈にしてみれば、恒浪牙の同情などうざったいどころか憎々しいものであろう。

 犀煉は泉沈とは違い、恒浪牙の思いを知りつつ利用する。
 恒浪牙に対して、何の感情も抱いていない。
 今彼の中に在るのは、たった一人だけ。
 彼を捉えて離さないたった一人の女だけ――――。


「四凶……いや、四霊とは、本当に哀れな生き物だね。君達を見ていてつくづくそう思うよ」


 あの時私が止めていれば、泉沈も君も、ただの人生を送れただろうに。
 そう独白すると、犀煉は赤い片目を細めた。


「それは、嫌味か?」

「いいや、ただ思っただけさ。君もそう思うだろう? 四霊なんて生まれなければ、幽谷が存在する筈もなかったんだ。ただ、人が在り、猫族の在る乱世になっていた。私も、ただの地仙として放浪していた」


 泉沈や犀煉と、幽谷は違う。
 その違いの何たるかを関羽が知れば、きっと酷く傷つくだろう。

 雪蘭のように、胸を痛めて泣いてしまうだろうか。


「四霊なんて必要だったのだろうか――――今でもそう考えてしまうよ。何も出来なかったただの地仙だけれど」


 誰もが言う。
 天仙になれば良かろうと。
 だが恒浪牙はそれを堅く拒絶する。拒絶し、修行して功徳を集めることを止めた。

 それもまた、遠い昔に失った恋人への償いである。


 くすりと笑う彼を、犀煉は無表情に見つめ、ふと外套をはためかせて身体を反転させた。


「……では、犀煉。くれぐれも無茶はしないようにね」


 労るようにかけた言葉にも、彼は応えを返さなかった。
 闇に、鉄紺が溶け込んでいく――――。



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