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「関羽のおねーさん!!」


 背後から突如として襲った衝撃に、関羽は内蔵が口が出るかと思った。
 だが、実際出たのは中身ではなく悲鳴に近い声だった。
 腰にがっちりと回された腕を掴んで振り向くと、ぴんと立った黒い猫耳が見えた。

 まさか、とこめかみをひきつらせる。


「あ、あなた……泉沈!?」

「うん! 正解ー」


 腕を解いて関羽の前に、回り込んだのはやはり泉沈であった。にこにこと人懐こい可愛らしい笑みを浮かべて関羽を見上げてくる。その足下には星河も緩く尻尾を振ってお座りをしている。


「どうしたの? ここには星河とだけ?」

「うん。猫族はね、徐州にいるよ。幽州のみんなも一緒に暮らしてるのー」

「そうだったの……」


 関羽は安堵しつつ、眉根を寄せた。

 ……もしかして彼らだけで徐州から兌州まで来たの?
 いや、確かに兌州に間者として潜入した時に彼もついてきていたのだから兌州までの道は記憶しているのだろうけれど……。


「泉沈。どうしてこんなところに……徐州に残ってなくちゃ駄目じゃない!」

「だって幽谷のお姉さんといたいんだもん。僕は猫族じゃなくて、幽谷のお姉さんと一緒にいたいのー」


 ぷくっと頬を膨らませた彼は、すぐに口から空気を抜いて周囲をきょろきょろと見渡した。幽谷を探しているのだろう。
 けれど、彼女はここにはいない。


「幽谷のお姉さんは?」

「ここにはいないわ。今、行方が分からなくなってて……曹操が別の国でも捜してくれているみたいなんだけど」


 途端、泉沈は白けた。半眼になって「ふーん」と関羽に背を向ける。


「関羽のお姉さん、意外と役に立たないんだね。……なんだ、幽谷のお姉さんいないんだ。折角動物達に関羽のお姉さんの居場所を探してもらったのに、これじゃ骨折り損じゃーん」

「……ごめんなさい」


 泉沈にとって、自分は幽谷のついでなのだろう。
 前回兌州に滞在した時、少しは仲良くなれたと思っていたのだけど……残念だ。


「本当にごめんなさいね、わたしも戦に出た時に捜してるんだけど……」


 犀華のことを言おうと思ったけれど、泉沈に話しても詮無いことだと胸に仕舞った。犀家のことなら犀煉に訊いた方が良いだろうし。
 星河の頭を撫でながら、何かを考え込んでいる泉沈の前に回り、屈んで視線を合わせた。


「ここへ来る時、世平おじさん達にちゃんと言った?」

「書き置き残してきたよ」

「……つまり、皆には黙って出てきたのね」


 これじゃあ前回と全く同じではないか。
 額を押さえて関羽は吐息を漏らした。

 すると、唐突に星河が腰を上げて唸りだした。関羽の背後に向かって姿勢を低くし、牙を剥いた。


「星河? どうしたの?」

「お前!! どうして十三支の四凶がここにいるんだ!?」


 この声は――――夏侯淵だ。
 関羽は慌てて振り返った。

 夏侯淵がキツい眼差しで関羽の後ろに立つ泉沈を睨んでいる。運悪く、鍛錬を終えたところのようで手には彼の剣が握られていた。
 これはマズい。泉沈が刺激したら、絶対に夏侯淵は泉沈に襲いかかる。そうなれば泉沈も何をしでかすか分かったものではない。下手をすれば夏侯淵が負傷して、泉沈が咎められない。

 関羽は夏侯淵の視線を遮って泉沈を庇い立てする。


「夏侯淵! 泉沈は幽谷を捜して兌州に来たの! いつもわたしの側にいたから……!」

「それにしても関羽のお姉さん、徐州を助ける為に曹操軍の武将になってるなんて、正気を疑うよ。よくもまあ恩知らずの下賤な人間に従えるね。頭大丈夫?」

「ちょっ、せ、泉沈!」


 振り返れば、彼は心から不思議そうに関羽を見上げている。素直すぎる。彼の言葉には気になる点があるけれど、それよりもこの場でそんな言葉を言って欲しくはなかった。

 とにかく、今は事態が悪くなる前に夏侯淵から逃げなくっちゃ!!
 後方からじくじくと指すような気配を感じ始めて、いよいよ危機感が増す。
 関羽は泉沈の腕を掴んで星河を呼び、その場から一目散に駆け出した!


「なっ、待て!!」

「ワン!! ワン!!」


 星河が牽制をしてくれている。
 この隙に早く彼から離れないと!



‡‡‡




 取り敢えず、己の私室に逃げ込んだ関羽は泉沈を寝台に座らせると、追いかけてきた星河を部屋に入れてからその隣に腰を下ろした。
 関羽や星河は呼吸が乱れているのに、泉沈はけろりとしていた。これも四霊だからか。


「もう……お願いだから夏侯淵を刺激しないで、泉沈」

「刺激? 僕、刺激するようなこと言ったっけ?」

「……はあ」


 幽谷の苦労が知れる。彼女の指導は本当に骨が折れる。


「あのね、夏侯淵や夏侯惇は猫族や四きょ――――四霊が嫌いみたいなの。これは人間だから仕方がないことで、だから、仲良くとまでは無理だとは思うけれど波風を立てないように接してちょうだい」

「関羽のお姉さんの言ってること難しくって分かんないや。恩知らずだから恩知らずって言っただけなのに。それに人間は僕らを殺そうとするのに、どうして僕だけ駄目なの?」


 ……また、恩知らず。


「その恩知らずって何のことなの? 前も何度か聞いたけれど……」

「さあ、何のことでしょう。なぞなぞですー」


 けらけらと笑って嘯(うそぶ)く。
 人を食ったような態度に、疲れが一層増すような気がした。

 けれどもふと泉沈の笑顔が少しだけ変わったような気がして、関羽は彼を呼んだ。


「恩知らずがどういうことか知ったら、お姉さん達も人間も、どうするんだろーね」


 紫のお兄さんは、劉備を生かしておいてくれるかな。
 にいっと口角をつり上げる泉沈の色違いの双眸――――その氷の如く冷たい光に背筋がぞっとする。


「せ、泉沈……? 劉備を生かしておいてくれるかなって、どういうこと? あなたは何を知っているの?」

「それを答えちゃったらなぞなぞにならないよー。考えもしてないくせに答えだけを先に求めるなんて駄目だよ。そんな都合の良いこと、世の中は許しちゃくれないんだよー。怠惰は駄目ー」


 泉沈は立ち上がって、扉を開いた。寝台の下で伏せていた星河もそれに従った。


「待って泉沈! 何処に行くの?」

「幽谷のお姉さんを捜しに行くの。兌州から幽谷のお姉さんの気配はしてるし、捜せば見つかると思うから」


 関羽は目を剥いた。
 兌州で幽谷の気配?
 ここに幽谷がいるの!?

 思わず立ち上がって声を荒げる。


「ここに幽谷がいるのね!? だったらわたしも――――」

「え、普通に要らないんだけど。邪魔だし」


 きょとんと振り返り、ばっさり切り捨てた。


「要らないって……」

「だって、僕は今、幽谷のお姉さんにしか用は無いもん。幽谷のお姉さんが側にいないし、戻ってくる確証も無いのなら、僕と関羽のお姉さんが一緒にいる意味無いじゃん。それに曹操軍の武将なんでしょ? 勝手な行動は慎んだ方が良いと思うけど。人間って、こういうところは規則だの何だの厳しい筈だよ? 自分から猫族捨てて人間の一員に成り下がったくせに、自覚足りないんじゃない?」


 ……泉沈の言葉は以前よりも容赦がなかった。
 機嫌が悪いのかもしれないが、不思議そうな表情からは窺えない。

 でも自分は猫族を捨てた訳ではない。
 それだけは知っておいて欲しいと関羽は胸の前で手を組み、泉沈を呼んだ。


「あのね、泉沈。わたしは徐州と皆を守る為にここに……」

「でも、猫族から離れることを自分で選んだんでしょ? ごめんね、僕早く幽谷のお姉さんに会いたいから、もう行くよー」


 ふにゃり。
 とろけるような笑顔を浮かべ、ひらひらと片手を振りながら彼は部屋を出ていく。

 扉が閉められる直前に関羽も部屋を飛び出したのだけれど、泉沈も星河も、すでに忽然と姿を消していた。



 そして――――その夜に事は起こるのである。



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