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 迷ってしまった。
 砂嵐はその場で座り込んだ。
 出口を目指していた筈なのに、どうしてか随分遠くまで来てしまっていたようだ。

 薄暗く、物々しく肌がぴりぴりとする廊下に至り、砂嵐は弱り切って半泣きになっていた。
 どうしてだろうか。どうもこの辺りの空気は重い。
 けれども何か自分を誘っているような感覚に襲われるのだ。自然と、足は進んでしまう。

 ……少し前に、恒浪牙に言われたことがある。
 城はとかく霊が集まりやすい。――――城主に対する恨みを持った霊達が。

 武将という者は戦に向かう度、命と共に相手だけでなくその見も知らぬ家族の憎悪をも背負う。
 その覚悟の出来ぬ者に、武将たる資格は無いのだと、義兄は悲しげに語って聞かせた。
 そう言った者は、霊に囚われ、惑わされ――――命を落とすのだとも。

 その話の後に、恒浪牙は戦は悲しく、行う者も巻き込まれた者もあなに哀れなものであると断じた。

 ……では、夏侯惇達はどうなのだろうか。
 彼らは恒浪牙の言うような覚悟をしているのだろうか。恒浪牙にとって、彼らはその『哀れなもの』に入るのだろうか。

 段々と思考に耽るようになった砂嵐は、周囲の重い雰囲気から意識を逸らし始めていた。彼女にとっては、それが幸いであろう。

――――しかし、不意に己の足が歩みを止めてしまう。
 それにえっとなって我に返った砂嵐は右手にあった扉から、《ナニカ》を感じた。
 何を感じるのか分からない。けれども、《ナニカ》を感じる。
 砂嵐の身体は自然にそちらに向き直った。

 おかしい。
 どうしてだろうか――――胸がひりつく。
 何故だ。
 ここは知らない場所なのに。


 ここに入って《確かめなければ》いけないと誰かが囁く。


 確かめるとは、何を?
 ここが何かも知らないのに?
 どうしてこんなに気持ちが焦るのだろう。

 どうして、どうして、どうして。


 眼帯に覆われた片目がこんなに疼くのだろう。


「――――何をしている?」


 不意に背後で聞こえた声にびくりと身体を震わせる。
 振り返ることを阻んで首筋に添えられた冷たいそれは――――視界の端で鋭利で危うい銀の光を放っている。
 全身が総毛立った。
 いけない、と頭の中で五月蠅く警鐘が鳴り響いた。

 背中を突き刺すかのような冷たくも重い存在感。ただ背後に立っている……それだけで気圧される!


「あ、の……私、は、」


 ここまで、迷い込んでしまったのです。
 絞り出したのは、まさに蚊の羽音だ。耳を寄せなければ聞き取れない程に小さく、掠れていた。
 だが、この暗い静寂の横たわる廊下、幸いにも背後に立つ声の主には聞き取れていたようだ。

 だからといって警戒を解いてくれよう筈もなく。
 肌を裂かれつんとした痛みにひきつった悲鳴を上げた。

 荒れ狂う心臓はもう破裂してしまいそうだ。もっと空気を寄越せと耳元にあるかのように喧(かまびす)しく騒ぎ、息はどんどん荒くなっていった。


「庶民はこの城には入れぬ。何処から入ってきた」

「あ……か、関羽、さんに……」

「……関羽?」


 刹那、剣が少しだけ離れた。

 直後には全身から力が抜けて砂嵐はその場に崩れてしまう。
 胸を押さえて息を整えようと先程よりも大きく呼吸を繰り返した。けれども、心臓は騒いで騒いで空気を強請る。途中で誤って唾ごと気管に吸い込み咳き込んだ。

 怖い。
 ただただそう思う。
 存在感だけで人をここまで追い詰めるなんて、そんな人間がいたなんて。

 振り返りたくない。
 声を交わしたくない。
 ……逃げ出したい。
 がたがたと震える己の身体を抱き締め、早く何処かに行ってしまえば良いのにと、希(こいねが)う。自分が本来入っていけない身分だから咎められているのだとは分かっているけれど、せめて彼以外の人間に責められた方が数百倍ましだ。

 関羽が来てくれれば、万々歳なのだけれど……。


「こっ、これは曹操様! ――――と、その娘は……?」


 別の人間の声にがばっと顔を上げれば、新たな声の主――――兵士は砂嵐の顔にえっとなって暫く凝視し、やがて驚いたように大きな声を出した。


「もしや薬売りの妹ではないか? どうしてここに……」


 自分を知っている人だ。
 それだけで、全身が軽くなる。
 ほうと吐息を漏らして迷ってしまったのだとだけ答えた。


「……知っているのか?」


 そこでようやっと振り返ると、闇の化身のような青年が、氷の双眸を兵士に向けている。存外な若さに、顎を落とした。彼がこちらを見た瞬間慌てて目を逸らしたけれども。


「私達の間で評判の薬売りの妹です。あの十三支の娘や、夏侯惇様もご利用なされておられる筈ですが……」

「……そうか。分かった。関羽はどうした。あれがに城へ連れてきたのだと、これは答えたが」


 嘆息混じりに問われた兵士は、つかの間黙り込んで何かを思い出したように顔を上げた。


「……そう言えば、そう言えば何かを探すように城の中を走り回っておりましたが」

「ならばこれを連れて今すぐ関羽を捜せ」

「しかし、この牢屋の見張りが心労に倒れ、私が代わりを務めようとしていたのですが……」

「構わぬ。私がここにいる。どうせ、死人のようなのだろう。様子を確かめに来たついでだ」

「分かりました。ではすぐに戻ります」


 「立てるか?」手を差し出され、怖ず怖ずと重ねる。ぐいっと力強く引っ張り上げられた砂嵐は足下がおぼつかずによろめいたものの、兵士が背中に手を回して支えてくれたので倒れずに済んだ。

 礼を言いつつ、兵士にもたれ掛かるようにしながら元来た道を辿る。

 けれど、やはりまだ頭の中であの扉に引かれるモノを感じた。
 あそこには何があるのか、砂嵐は知らない。

 でも、やはり識(し)っているような気がする。

 牢屋と兵士は言った。
 ならばあそこにいるのは罪人である訳で。
 罪人に、知り合いはいない、筈だ。


「砂嵐? どうかしたのか」

「いえ……あの、私が先程おりました扉は、牢屋なのですか」

「ああ、そうだ。最近奇妙な女が捕まってな。それ以上は言えないが……それがどうかしたか?」

「いえ……不思議な感じがしましたので、気になって。私にも、良くは分からないのですが」


 謝罪しつつ話を終わらせる。



 その時の砂嵐は、死人のように顔から血の気が失せていた。



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