22
次の日、砂嵐はいつも通りの朝を迎えた。
雨に打たれて身動きが取れなくなって、折良く夏侯惇が現れたその時までで記憶は途切れている。
だが、目覚めた後の体調はすこぶる快調だった。あの時の麻痺した感覚が嘘のようだ。
だから恒浪牙が心配して一日休むことを勧めたのをやんわりと断って、いつも通り店の手伝いに精を出した。山に少なくなった材料を採りに行こうとすると、さすがに恒浪牙が必死の体で止めてきたけれど。
彼はしつこく食い下がり、結局暫くの間は恒浪牙が材料を採取に向かい、その間砂嵐が店番をすることになってしまった。
「もう大丈夫なのに……」
確かに、目覚めてすぐにこんなに気分も身体も軽いのは自分でも不思議だけれど。
でも本当に働けるのだ。辛いなんことは全く無くて。
むしろこんな状態で休んでいる方が申し訳ないくらいだ。
義兄さんの、心配性。
薬を求めて店を訪れた客の応対をしながら、砂嵐は山へ出かけた義兄へのささやかな文句を胸中で呟いた。
「砂嵐ちゃん、腹痛の薬、下さいな」
「分かりました。ええと……あ、いつも買われるのはこれですね」
薬を差し出しながら値段を告げた彼女は、代金を受け取って釣り銭を渡す。
すると、客は砂嵐に笑いかけ、手を出して欲しいと求めてきた。
「? こう、ですか?」
「ああ。これ、いつも頑張ってる砂嵐ちゃんにご褒美だ。といっても、あたしがもう使わなくなった物なんだけれどね」
手に落とされたのは簪(かんざし)だった。
銀に小さな赤い珠(たま)がちりばめられ、質素ながらに細かい意匠の美しい簪である。
一目で、高価な物であると察した砂嵐は慌ててその簪を突き返した。
「い、いただけません! こんな高そうな簪……!」
しかし、客はそっとその手を押し返すのだ。
柔和な――――まるで愛しい我が子を見る母親のような温かく穏やかな眼差しが砂嵐を捉えていた。
「良いんだよ。あたしが随分前に旦那に買ってもらったもんだけど、旦那は死んじまったし、見せる相手がいなくなっちまったんじゃああたしが付けてても仕方がない。でも砂嵐ちゃんはきっとこれから良い男を見つけて、結婚するかもしれないだろう? その相手に、着飾って魅(み)せてやんな」
「け、けど……」
「旦那の形見ならうちにも沢山ある。それに、あたしの中にもある。だから、どうか貰ってくれないかねぇ」
諭すように優しく言われて、砂嵐は瞳を揺らして俯いた。こくりと頷いて謝辞を述べれば、逆に礼を言われた。
「ありがとうね。じゃあ、また頼むよ」
「はい……あの、これ、大切にします!」
客は、とても嬉しそうに笑った。
‡‡‡
簪を貰ったのは良いけれど、こんな高価な簪が果たして自分に似合うのか。
客の応対をこなしながら砂嵐はそれをずっと悩んでいた。
今まで自分は着飾ったことが無い――――と、思う。如何せん記憶が無いので定かではないが、服の中に装飾品や化粧の類が無いのはそう言うことだと考えられる。
そんな自分が今更着飾ったとして、変ではないだろうか?
それに、眼帯のこともあるし……誰かに訊いてみたいところである。
関羽さんが来てくれれば、相談出来るのだけれど。
往来を見回してみても、あの愛くるしい少女は何処にも見当たらない。今日は、忙しいのかもしれない。
ならば、義兄はどうだろうか?
――――駄目だ。あの人は、きっと優しい言葉しかかけてくれなさそうだ。
ここはやっぱり女同士、が良い。
けれども曹操軍の武将である関羽に相談しに行ったらそれこそ迷惑だ。
関羽が店に来てくれるまで、この簪は封印かしら。
そう思いながら脇に置いておいた簪を見下ろし、ほうと吐息を漏らした。
すると、
「あら、砂嵐。どうしたの、その簪」
「あ……か、関羽さん!?」
「え?」
思わず立ち上がって笑顔になる。
けれど、ふと首を傾げた。
さっき城へ続く方を見渡した時は何処にもいなかったのに。
「何処かお出かけになっていたんですか?」
「ええ。袁紹の軍を見かけたって報告があったから。でも偵察が目的だったみたいで、交戦しなかったの。だから、万が一に備えて今のうちに薬の補充をと思って。砂嵐は、身体はもう大丈夫なの? キツくない?」
「大丈夫よ。でも、暫くは山に行ってはいけないと、今義兄さんが代わりに材料を採りに行っているわ」
苦笑混じりに言えば、彼女は納得した。「それが良いわ」と彼に同意してしまう。
唇を尖らせると笑声が上がった。
「ところで、その綺麗な簪はどうしたの? 何だか悩んでいたみたいだけど……」
簪を見下ろされ、砂嵐ははっと背筋を伸ばした。
真剣な顔になって、簪を拾い上げた。
関羽にそっと差し出し、
「関羽さん。折り入って相談があるの」
関羽はこてんと首を傾けた。
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