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 幽谷が連れてこられたのは肌寒い牢屋だ。
 乱雑に、石の敷き詰められた冷たい床に放り投げられ身体を強か打ち付けた。

 兵士達が手に足に枷をはめていく。
 それを静かに見つめながら、幽谷は牢の入り口に立って様子を眺める曹操の動向に意識を傾けた。
 自分が今までどうしていたのか皆目分からない、そんな状況で曹操に捕まっては困るのだが、それ以上に彼の様子が危うく思えた。

 兵士が離れると同時に、視線を曹操へと向ければ、彼は幽谷を氷のような瞳で強く見据えてきた。それは邪魔者を排他する意志ある瞳だ。彼は幽谷を殺そうと思っているのかもしれない。
 どうしてそうなのか――――もし、関羽に関係のあることならば、彼女に危害が及ぶ前に対処しなければならない。


「曹操殿、あなたは――――」

「そのままにしておけ。一食も与えるな」


 幽谷の言葉を、彼は遮った。
 背を向けて早足に牢屋を出て行ってしまう。唯一の照明であった松明を持っていた兵士らもまた、彼に続いた。

 軋みを上げて閉じられると、一切の光が無くなってしまう。
 何も見えない視界を閉じて幽谷は上体を起こしその場に座り込んだ。


「あの曹操の目は、一体……」


 私がいない間に、この兌州で何かあった?
 それとも、曹操の中でだけ何かしらの変化があったのか?

 関羽には――――影響は行っていないだろうか?
 無性に主の無事が確かめたくなった幽谷は枷を外そうとして、ふとした足音に動きを止めた。

 曹操が戻ってきたのだろうか?
 警戒し、その場に端座して音に意識を集中させた。すると、足音は曹操のそれとは違うようだ。先程の兵士達とも違う。
 ……いや、彼女の記憶にある人物の足音とはどれとも合致しなかった。何となく、この歩調には覚えがあるのだが……誰なのだろう。

 足音はある程度大きくなったところで唐突に止んでしまった。

 軋み。
 縦長に伸びた隙間から再び光が漏れた。


「……何者?」


 光が大きくなる。
 そこにぬっと入り込んだ影に、幽谷は一瞬目を細めてあっと声を漏らした。

 へにゃりと頼りなげな微笑みにゆったりとしたその衣服――――見覚えがある。


「あなたは、」

「こんばんは、幽谷」


――――恒浪牙。
 幽谷がつい先程まで探していた地仙であったのだ。



‡‡‡




「驚きましたよ。あなたが曹操に捕まっているなんて……心臓が飛び出してしまうかと思いました」


 のんびりと言う彼は、間違い無く恒浪牙だ。
 彼は格子の前に端座すると顎を撫でて渋面を作った。

 ……ここまで侵入したのには、方術を用いたのだろう。
 地仙と言うからには、恐らくは幽谷には使えない方術を扱えても何ら不思議は無い。とてもそうだとは思えない風貌ではあるけれど。


「ここから、早く出た方がよろしいでしょう。あなたの身の為にも。ですがあなたは自ら捕まってしまわれた。理由はあの猫族の娘ですね」


 そこまでに、主人と仰ぐ彼女が心配ですか?
 幽谷はすぐに首肯した。澱み無い返答である。

 予想をしていたらしい恒浪牙に驚いた様子は無く、呆れ果てたとも、感服したとも取れる複雑な笑みを浮かべた。そっと顎を撫でて口角を弛めた。


「いや。あなたの忠義には感心するばかりです。けれどね、あなたのそれは、とても危ういことを自覚しておきなさい」

「危うい……?」


 恒浪牙は頷く。
 立ち上がった彼は格子を見回して、一歩、《中へ足を踏み入れた》。

 幽谷は愕然とし顎を落とす。

 彼の身体に格子が食い込――――まない。
 まるで恒浪牙の身体に実体が無いかのように、格子は彼の通過を許してしまう。
 けれども、実体が無いのだとすれば、この小石を踏み締める耳障りな音は何だろうか。
 矛盾だらけの現象に、しかし幽谷は少し考え平静を取り戻した。

 そうだ、彼は地仙なのだ。
 仙人達に常識という枠は存在しない。
 有り得ないことでも、彼らの世界では有り得る。
 だから、彼の正体を知っているのならば、それ程に驚くことでもなかったのだ。

 ほうと吐息を漏らし、目の前の恒浪牙を強く見据えた。


「今のは、どういう意味ですか」

「そのままの意味ですよ。あなたの忠義は、確かに素晴らしいものではある。けれでもその忠義が、あなたに《毒》を呼んでいるのですよ」


 この世に在る人は誰しもが存在自体に意味を持つ。無い者などまず有り得ない。それが無いと言う人間は、それを見つけていないだけなのだ。
 そしてその中でも幽谷や犀煉達は特殊な存在であり、決められた意味を自覚し、使命を全うする意志を見せることで完全な存在となる。


「四霊には、必ず潜在意識が存在する。四霊の存在意義に逆らい猫族の娘ばかり構う今のあなたは、その意識の神経を逆撫でしているのです。けれども、あなたは犀煉とは作りがまるで違うので、潜在意識と対峙する機会が生まれない。つまりあなた自身がそれを自覚出来ないので、今あなたが潜在意識をどれだけ怒らせているのか分からないのです。その証として右上腕のそれも、ただ四凶だから起きた現象なのではないかという漠然とした認識しか無いでしょう」


 そっと指差すのは幽谷の右上腕。
 幽谷は咄嗟にそこを掴んで少しだけ引いた。
 恒浪牙を睨めば、彼を目を伏せる。


「あなたの忠義が、潜在意識を怒らせているのですよ。あなたが潜在意識の思うように動かぬ故、その鱗が生じていく。それは潜在意識があなたの身体の支配権を奪おうとしている証に他ならない。《毒》を呼ぶと言うことはそういうことです。本来ならばあなたは意思を持つように作られていないのだから、犀煉達に出来たことは、出来ません。支配されればあなた――――《幽谷》は本来ある形として完全に消え去るでしょう」


 これは警告です。
 これ以上己の感情に振り回されるのはお止めなさい。
 恒浪牙の声は徐々に堅さを帯びていった。

 彼がどうして自分にそのように言ってくるのか――――その言葉が本当に信用出来るのか、分からない。


「《私》が消えたらば、どうなるのです?」

「それは私の口からは言えません。それは絶対に言ってはならぬことですから」


 もし私の言葉を信じ、猫族と一旦離れることを決められた時は、私の名をお呼び下さい。
 その時に、潜在意識に対し、付け焼き刃程度の効果しかございませんが、術をかけて差し上げましょう。
 恒浪牙は幽谷の頭をそっと撫でると、「よっこらせ」と腰を上げて、また格子をすり抜けた。扉を開けて牢屋を出て行く。
 やはり、彼の存在は誰にも気付かれていないようだ。兵士が駆け付ける様子は全く無い。

 再び暗黒に包まれた牢の中で、幽谷は恒浪牙の言葉を反芻(はんすう)して吟味する。
 しかし、唐突にあんな訳の分からないことを言われたって、理解出来る筈もないし、そもそも信じるかどうかも決めあぐねているのだ。そんな状態で猫族から離れるなんてことを決めるのは無理な話である。

 ああもう……今の自分自身の状況を、自分が一番分かっていないように思えて仕方がない。

 本来、《私》が生まれてはいけなかった?
 潜在意識が、《私》を支配しようと鱗を出している?
 飛躍しすぎだ。
 そんな込み入った存在だっただろうか、四凶――――否、四霊とは。
 幽谷は舌打ちした。
 髪を掻き上げ、独り暗闇の中で思案に明け暮れる。



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